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運命を拓く

運命を拓く

 


「人間の心で行う思考は、人生の一切を創る」

 


心の運用を良くしたり、悪くしたりすることによって、人間の人生は良くもなり、悪くもなる

 


私からいわせれば、やれ神だ仏だ、といっている者は、安直な気休めを人生に求めている哀れな人だといわざるをえないのだ。

 


我々は子供の時から、「地球は、太陽系の中で、太陽を中心として回っているのだよ」と、学校の先生に教わっただけで、証拠を見たわけでもないが、無条件で「そうだ」と思っている。その「そうだ」と思う気持ちで考えなければいけない。

 


人間の心に、何かの観念が出ると、その観念の型の通りに宇宙全体から微妙な力が働きだし、その観念の型が、良ければ良い方に、悪ければ悪いように、ーわかりやすくいえばー思い方や考え方が積極的であれば、積極的なものが出来、消極的なら消極的なものが出来る。そういうように真理が出来ている。

 


「人間の生命に与えられた活きる力というものは、肉体に在るのではなく、霊魂という気の中にある」

 


人間の運命も健康も、それを完全なものにするには、結局心の持ち方だと思った。そして、目に見えないが、宇宙の一切を支配する不思議なエネルギーを我々の生命に受け入れるのも、またそのエネルギーを全生命に分配するのも、これは神経が行なっている。そして、その神経は肉体の中にあるが、肉体の中に存在するだけで、肉体から受ける影響も全然ないことはないが、それは相対的であり、心から受ける影響の方が絶対的である。

 


しかし、今までのように証拠を見なければ安心できないというのは大変間違いであり、所詮、この大宇宙というものは、物資的に考えようとするから失敗するので、大宇宙の根源にさかのぼって考えれば、非物質的なものではないか。

 


人生は心一つの置きどころ。人間の心で行う思い方、考え方が、人生の一切を良くもし、悪くもする、というのが人生支配の根本原則である。

 


将来人生を完全なものにしようとする若い人達は、特に、およそ心で行う思考ぐらい人生に対して重大な影響をものものはない、ということを常に念頭におかなければならない。

 


運命や健康を完全にする万物創造の建設的作用を行うプラスの気を、何をおいても、自分の生命に常に分量を多く受け入れるようにしなければならない。そのためには、いかなる時にも、心の思い方、考え方を積極的にし、仮にもその反対であらしめないことである。

 


「悟れば、一瞬にして幸来たる」

 


自己というものを無限大に考えて良い。叡智によって作られ、宇宙の中に最も優れたものとして、自分は造られたのだという事実を、断固として信念しなければいけないのである。それだけのことが心の中にしっかり決められれば、何も大した努力をしなくても、恵まれた幸せな人生を造りあげることができる。

 


運命というものには2種類ある。どうにも仕様のない運命を天命といい、人間の力で打ち開くことの出来るものを宿命というのである。どうにも仕様がないと思うようなことは、よく考えると、自分では仕様がないかもしれない。しかしその時に、ひょいと自分の心の持ち方を考えてみなさい。

 


人生を活きるのに、安心と勇気と調和などという気持ちなど持っていない。万事がびくびくと活きている。口では偉そうなことを言っているが、やたらと迷信に陥りやすく、ただ偶然ということのみを当てにして人生を活きている人が多い。それでは、くだらない人生だけが結果に来るだけである。

 


毎日の人生を神経過敏になり、なんとなく不安な気持ちになり、何事に対しても、安心というものを持って、人生を活きている人が少ないという証拠に、文化の世の中に、いまだに占いがどうだ、拝み屋がどうだ、干支がどうだ、と馬鹿馬鹿しく下らないことを言っているものが、なんと多いことか。

 


「迷信深い人間は、さかりのついた動物より下等だ。」

 


自分の心を、積極的にして活きるという方に自分の心を決定しなさい。そうすればもう、天命なんてものは、極めて僅かしかない。

 


腹の立つことがあろうと、悲しいことがあろうと、瞬間に心から外してしまえばいいんだ。心を積極的にすることを心がけて、自分の心を汚さないようにするには、気がついたらすぐそれを拭いてしまえばいいじゃないか。

 


少しでも消極的な気持ちが、心の中にあるならば、それは自分を宇宙霊の力から遠ざけて、くだらぬ宿命を招き寄せる種を蒔いているのと同様の人だ。

 


宿命統制にもう一つ必要なことがある。それは常に、心の中に感謝と歓喜の感情を、もたせるよう心がけることである。習慣として、何でもいいから、感謝と喜びで人生を考えるよう習慣づけよう。

 


せめて生きている間だけは、どんなことがあっても、ニコニコ笑って行こうではないか。つらいこととか、悲しいこととかいうのは、自分の心で決める評価なんだから。つらいことがあっても、をああ嬉しい!こうして生きていられる!」と思ったら、ニコニコして暮らしていけるじゃないか。

 


為せばなる、為さねば成らぬ何事も、成らぬはおのが為さぬためなり。

 


人間というものは、浮き沈み、波の高低のあるところに活きている。晴天の日もあれば、雨の日もあれば、風邪の日もある。そのたびに、自分の心を苦しめていたらどうなるか。運命のよくないとき、運命にこだわれば、運命に負けてしまう。だから、病でも、運命でも、消極的な気持ちにしないこと。そうするのには、まず相手にしないようにすることが1番である。

 


「人の本当の値打ちというものは、宝石でもなければ、黄金でもない。いわんや地位でもなければ、名誉でもない。ただ、信念の二文字である。」

 


人間というものは、いかなる場合があろうとも、自己が主でなければいけない。そして主となるには、人にも物にも、わずらわされない、とらわれないことである。

 


自我の確立こそ、人間生活の最も大切なことなのである。自我の確立が出来ていないというのは、自己認証が出来ていないからである。

 


「私の欲しいものは、私と同様に、お前が、健康も、運命も、本当にどんな場合があっても、楽しんで活きられるような人間になること。」

 


あなた方も、心の中を本当に豊かにしなさい。そして、その豊かな心で人生を活きるという気持ちを自分のものにしたときに初めて、本当の人間として活きられるのである。

 


「私は次代を背負って立つ青年諸君にいいたいのは、やがて少なくとも二十一世紀が来たら、日本が、思想的にも、アイデアの方向にも、また現実の事業の方向にも、必ずや、世界をリードするだけの、権威が出来ると私は確信する。だから、青年諸君は、それを自分の方針として、今後の人生を研ぎ上げることに努力しなさい。

 


人事世事一切の出来事に対して、物を恐れるという気持ちくらい、価値のない結果を人生にもたらすものはない。

 


「人の大いに怖るるところのものは必ず、遂に襲い来るべし」

 


戦いに勝つものは、力なのだ。しかも、その力を強くするには何を措いても、第一に心を積極的にしなければいけないのだ。それを、悲観したり心配したりして、心を消極的にして、なおかつ、より価値高く活きようとする考え方は、火種なしに炭から火をつけようとするものである。

もっととぼけた滑稽な人間になると、他人の言葉や行為にまで、自分の心が影響され、あるいは同情して、自分まで心配したり不愉快になったり、悲観して不機嫌になってしまう馬鹿者がいる。

 


「人生は主観だ!心一つのおきどころだ!」

 


「勇気がないからなのだ。否!勇気が欠けているからだ。勇気はあるのに、出し方がわからないから、人生を活きる際に、非常に勇気が足りないものが出てくるのだ。」

 


勇気が落ちたなら、いくら積極的にしようと思っても、いざ、さらばというときに積極的にならない。普段の習慣が大事なのである。勇気というものは、人生を統一する一切の根幹基本基礎なのだ。

 


頑丈な肉体を持たず、見るからに弱々しい体であっても、相当に長生きをし、世の中のために仕事をなしている人が、昔から随分といる。もちろん、肉体が強いに越したことはないけれども、いかに肉体が発達しても、それはただ単に、生命の物質的方面のみの発達だ。心の方面が積極的でないかぎり、理想の通りの最高の生命の発達は出来ない。

 


人生修養の最彼岸点は、いつも勇気の溌剌たるものがなければいけない。勇気溌剌とは、どんな場合にも、虚心平気の状態でいるのが、溌剌たる勇気の状態なのだ。

 


勇気が欠けているから、消極的な心や気持ちが起こってくるのである。

 


「勇気は常に勝利をもたらし 恐怖は常に敗北を招く」

 


この世の中や人生には、滅多矢鱈に恐ろしいことはありはしない。恐ろしいと思っているのは、自分の心なのである。

 


勇気の誦句

自分はこの世に作られたものの中で、一番優秀な霊長といわれる人間ではないか。しかも人間の心の力は、勇気というものでその圧力を高めるのが、人の生命に与えられた宇宙心理である。だから今日からの自分は、いかなる場合にも断然勇気を失うことなく、特に自己の本能や感情の中で、自他の人生を泥ぬるがごとき価値なき低劣な情念が発生したら、それに立派に打ち勝ち得る強い心を作るために、大いに勇気を煥発することに努めよう。そうだ。終始一貫、勇気、勇気で押し切るのだ。

 


思考=観念=想像=理想=成就