人物を修める
人物を修める
ものを考える上で大切な3つのこと
第一は、目先にとらわれず、長い目で見る。
第二は、物事の一面だけを見ないで、できるだけ多面的・全面的に観察する。
第三は、枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察する。
陽が活動し代表となって、それを陰が裏打ちし内に含んで、初めて両方が存在するのです。したがって陰陽の割合は陰が51%、陽が49%ぐらいであるのが適当であります。
常人の場合、徳が才よりもいくらか優れている人と、才が徳よりもいくらか優れている人とがあります。この区別を東洋の人物学では「君子、小人の弁」といい、前者を君子、後者を小人と呼びます。しかし、君子が偉くて小人がつまらないというのではないのです。ケチな君子もあれば、偉大な小人もあります。明治維新でいいますと、西郷隆盛は君子、勝海舟は偉大なる小人といえます。
人間としては知の人よりも、情の人の方が良い。
人間である以上、愛は愛でも敬愛でなければいけません。「論語」に「敬せずんば何を似てか分かたんや」とあるが、敬によって人を敬し、己を敬することによって、初めて人間は自他共に人間になるのです。
才智・技能に勝れるということはよいもので、望ましいことではありますけれども、それだけでは人間として失格です。やっぱり人間として至るためには、人に真心を尽くす、世間からいうならば、うるさがれるほど思いやるということが大切です。
自分の存在がいかに小さくささやかであっても、一燈となって一隅を照らしてゆく。そうすればやがてそれが百、千、万と集まれば万燈遍照、あまねく社会を照らし、国を照らすことになる。
正命、平たくいうと、正しい運命観を持つということです。うろうろしないで絶対的な決定を持つことでもあります。
運という字は、いわゆる「うん」ではなくて、はこぶという意味であり、命は無限の創造、限りなきクリエーションでありますから、その本義に基づいて、できるだけ自分が開拓してゆこうとする立命観が正命です。
人間の本性は何かというと、言うまでもなく特性であります。特性にはいろいろありますが、例えば明るいということがそうです。人間は日月光明から生まれたのですから、明るいというこおは最も大事な本質であります。
善因善果・悪因悪果で、善行を行えば善果を得、悪事を働けば悪果を得るのは当たり前のことを
われわれの存在・活動はすべてこの元気によるものでありますから、元気がないというのは人間として根本的な失格であります。
人間を観る方法でありますが、これは自らに対して言えば反省することであり、他に対して言えば吟味することであります。
人はその終わりの至らんことを恐るるなかれ。むしろ未だかつて始めを持たずしておわらんことを恐れよ
人間は、悪い終わりになることを恐れてはいけない。それよりも、未だかつて本当の意味の「始」、始らしい始を持たずに終わってしまうことを恐れよというのであります。
われわれは幾つになっても「これから始めるのだ」という気持ちを失ってはいけません。
元気は一切の造化の本質・根本でありますから、元気があるかないかが人間、人物の1番基本的な要素ということになります。
見識は知識のように補うことも人から借りることもできません。本当の意味の修養をしなければ得られないのです。
見識にこの決断力・実行力の伴ったものを「胆識」と申します。