再読したくなる切り抜きブログ

読んだことのある「本」をもう一度読みたくするブログ

人生論ノート

人生論ノート

 


幸福は人格である。人がコートを脱ぎ捨てるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎ捨てることのできる者が最も幸福な者である。

 


機嫌が良いこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でないごとく、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないだろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うがごとく自ずから外に現れて他の人を幸福にする者が真の幸福である。

 


人生がただ動くことでなくて作ることであり、単なる存在でなくて形成作用であり、またそうでなくてはならぬゆえんである。

 


実をいうと、習慣こそ情念を支配し得るものである。情念が習慣に形作られるのでなければ情念も力がない。一つの習慣は他の習慣を作ることによって破られる。

 


虚栄心の虜になるとき、人間は自己を失い、個人の独自性の意識を失うのがつねである。そのとき彼はアノニム(名前の無い)な「ひと」を対象とすることによって彼自身アノニムな「ひと」となり、虚無に帰する。しかるに名誉心においては、それが虚栄心に変ずることなく真に名誉心にとどまっている限り、人間は自己と自己の独自性の自覚に立つのでなければらない。

 


だから名誉心を持っている人間が嫌うのは流行の模範である。名誉心というのはすべてアノニムなものに対する戦いである。

 


世間の評判というものはアノニムなものである。従って評判を気にすることは名誉心でなくて虚栄心に属している。

 


義人(正義を守る人)とは何か、ー怒ることを知れる者である。

 


虚無(何も存せず、むなしいこと)はむしろ人間の条件である。泡沫や波が海と一つのものであるように、人間もその条件であるところの虚無と一つのものである。

 


虚無が人間の条件あるいは人間の条件であるものの条件であるところから、人生は形成であるということが従ってくる。

 


孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間のごときものである。「真空の恐怖」ーそれは物質のものでなくて人間のものである。

 


いかなる対象も私をして孤独を越えさせることはできぬ。孤独において私は対象の世界を全体として越えているのである。

 


人は自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。

 


嫉妬とはすべての人間が神の前においては平等であることを知らぬ者の人間の世界において平均化を求める傾向である。

 


嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自信はいかにして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。

 


古代人や中世的人間のモラルの中心は幸福であったのに反して、現代人のそれは成功であるといってよいだろう。成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心ではなくなった。

 


成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。

 


成功も人生に本質的な冒険に属するということを理解するとき、成功主義は意味をなさないであろう。成功を冒険の見地から理解するか、冒険を成功の見地から理解するかは、本質的に違ったことである。成功主義は後の場合であり、そこには真の冒険はない。

 


純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。

 


人格とは秩序である、自由というものも秩序である。

 


すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、その逆でないということは、深く考うべきことである。つまり確実なものは与えられたものではなくて形成されるものであり、仮説はこの形成的な力である。

 


人生も仮説的なものである。それが仮説的であるのは、それが虚無に繋がるためである。各人はいわば仮説を証明するために生きている。

 


人生は実験であると考えられる。仮説なしに実験というものはありえない。ーもとよりそれは、なんでも勝手にやってみることではなく、自分がそれを証明するために生まれた固有の仮説を追求することである。

 


現代の道徳的頽廃の表面の形はまことによく整っている。そしてその形は旧いものではなく全く新しいものでさえある。しかもその形の奥には何等の生命もない、形があっても心はその形に支えられているのではなく、虚無である。これが現代の虚無主義の性格である。

 


娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。生活を楽しむということ、従って幸福というものがその際根本の観念でなければなるなぬ。

 


娯楽は生活の中にあって生活のスタイルを作るものである。娯楽は単に消費的、享受的なものではなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見えることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。

 


この機械技術を支配する技術が必要である。技術を支配する技術というものが現代文化の根本問題である。

 


人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。

 


希望とは、好ましい事物の実現を望むこと。

 


希望は運命のごときものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはありえないであろう。

 


人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。

 


それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。

 


希望は私から生ずるのでなく、全く私の内部のものである。真の希望は絶望から生ずるといわれるのは、まさにそのことすなわち希望が自己から生じるものでないことを意味している。絶望とは自己を放棄することであるから。

 


絶望において自己を捨てることができず、希望において自己を持つことができぬということ、それは近代の主観的人間の特徴的な状態である。

 


人生問題の解決の鍵は新しい基準を発見することにあるように思われる。希望が無限定なものであるかのように感じられるのは、それが限定する力そのものであるためである。

 


スピノザの言ったように、あらゆる限定は否定である。断念することを本当に知っている者のみがほんとうに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。

 


形而上学は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問

 


形成は断念であるということがゲーテの達した深い形而上学的知恵であった。それは人生の智慧である。