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自分の中に毒を持て

自分の中に毒を持て

 


自分自身の最大の敵は他人ではなく自分自身というわけだ。自分を取り巻く状況に甘えて自分をごまかしてしまう、そういう誘惑はしょっちゅうある。だから自分をつっぱなして自分と闘えば、逆に本当の意味での生き方ができる

 


安易な生き方をしたいときは、そんな自分を敵だと思って戦うんだ

 


自分はどのくらい能力があり、どのくらいのことをすべき器であるかということを見極めようとしないで、つまり、自分のことが自分でわからないのに、勝手に自分はダメだと見切り、安全な道をとってしまう

このように自分を限定してしまい、その程度の人生で諦めてしまえば、これは安全な一生だ。だが、自分が今の自分を否定して、さらに進み、何か別な自分になろうとすることは大変な危険が伴う

 


青年は己の夢にすべてのエネルギーを賭けるべきなのだ。勇気を持って飛び込んだらいい

 


不成功を恐れてはいけない。人間の大部分の人々が成功しないのが普通なんだ。しかし、挑戦したうえでの不成功者と、挑戦を避け続けたままの不成功者とではまったく天地へのへだたりがある。

 


人間にとって成功とはなんだろう、結局のところ自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかではないだろうか。

 


食えなけりゃ食えなくとも、と覚悟すればいいんだ。それが第一歩だ。その方が面白い、

 


人生を貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。その時、切実にぶつかるのは己自身だ。

 


自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。

 


むしろ自分は気が弱いんだと思って、強くなろうとジタバタしない方がいい。諦めるんではなく、気が弱いんだと思ってしまうんだ。そうすれば何かしら、自分なりに積極的になれるものが出てくるかもしれない、つまらないものでも、自分が情熱を賭けて打ち込めば、それが生きがいだ。

 


何か、これと思ったら、まず他人の目を気にしないことだ。また他人の目ばかりでなく、自分の目を気にしないで、萎縮せずありのままに生きていけばいい。

 


三日坊主でかまわない、その瞬間にすべてを賭けろ、という主義なんだ。だから、三日坊主になるという計画を持ったっていいと思う。

 


「いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。いずれ、なんていう奴に限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばらして、現在に充実することだ。過去にこだわったり、未来でごまかすなんて根性では、現在を本当に生きることはできない。

 


現在の自分に責任を取らないから懐古的になっているわけだ。しかし、人間が一番辛い思いをしているのは『現在』なんだ。やらなければならない、ベストを尽くさなければならないのは、現在この瞬間にある。だから、そんなものにこだわっていないで、もっと現実を直視し、絶対感をもって問題にぶつかって、たくましく生きるようにしていかなければならない。

 


自分はダメな人間だと思うなら、そのマイナスの方に賭けてみろ。つまり、自分で駄目だろうと思うことをやってみるんだ。

それは、もちろん危険だ。失敗に賭けるんだ。でも、駄目だと思うことをやった方が、情熱が湧いてくる

 


自信なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘いつづけることなんだ。

 


自分が頭が悪かろうが、面がまずかろうが、財産がなかろうが、それが自分なのだ。それは絶対なんだ。

 


自分がバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任を持って、堂々と押し出す。それがプライドだ。ところが自尊心だとかプライドだと言いながら、まるで反対のことを考えている人間が多い。

 


大切なのは、他に対してプライドを持つことではなく、自分自身に対してプライドを持つことなんだ。

 


他に対して、プライドを見せるということは、他人を基準において自分を考えていることだ。そんなものは本物のプライドじゃない。たとえ、他人にバカにされようが、けなされようが、笑われようが、自分がほんとうに生きている手ごたえを持つことがプライドなんだ。

 


そもそも自分を他と比べるから、自身などというものが問題になってくるのだ。

自分が信じているもの、正しいと思うことに、わき目もふらずに突き進んでみろよ!

 


自信はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。

 


他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分のことをどう見ているかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものがなくなってしまう。

他人の前に出ると、自分をよく見せようと思ってしまうのは、その人間にコンプレックスがあるからだ。

 


大切なのは他に対してプライドを持つことではなく、自分自身に対してプライドを持つことなのだ。他人に馬鹿にされようが、笑われようが、自分がほんとうに生きている手応えを持つことが、プライドなんだ。

 


下手なら、むしろ下手こそいいじゃないか。

 


下手なことを明るく自認すれば、コンプレックスを持たずに済むじゃないか

 


自分を大事にしすぎているから、いろいろと思い悩む。そんなに大事にしないで、よしそれなら今度から、好かれなくていいと決心して、自分を投げ出してしまうのだ。

 

 

 

 


大学コースを進んでいくことが悪いと言っているのではない。人生というのはまことに単純なようで複雑だ。また、その逆も言える。

 


たんたんとした道をすべって行くむなしさに流されてしまわないで、傷つき、血の吹き出る身体を引きずって行く。言いようのない重たさを、ともども経験し、噛み締めることだ。これが人生の極意だ。

 


ただのなまぬるいサラリーマンになることは簡単だ。しかし、そこで本当の自分を誤魔化して、画一化するより他はないのだ。それよりも、自分の目、手でふれる、だからこそ危険な道をきりひらいて行くべきだ。

 


あえて敗れることを決意して、社会にぶつかるのだ。それによって、さらに大きな、輝かしい人間像を形成していく

 


やろうとしないから、やれないんだ。

 


世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくはいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。

 


そして非常に悪いことは、自分は本当に純粋にこうしたいと思っているが、それを世の中は許してくれないなどと今の状況では、というようにやたら障害の項目を並び立てることだ。それは、弁解のために、自分に言って聞かせ、他人を納得させるために盛んに障害を言い立ててるにすぎない。

 


僕の考えはこの逆だ。僕はこういう制約の多いところでこそ自分のしたいことをするのがほんとうの行動になると思う。むしろ社会や周囲の全部が否定的であればあるほど行動を起こす。

 


自分の正しいと思ったことを、平気で明朗に表す。そうすれば、どんなに制約のあるところでも、みんなが明朗になって、やる気になって楽しく生きがいのある生活に巻き込まれていくだろう。

 


自由に、あたりを気にしないで、のびのびと発言し、行動する。それは確かにむずかしい。苦痛だが、苦痛であればあるほど、たくましく挑み、乗り越え、自己を打ちださなければならない。若い時こそそれが大切だ。この時代に決意しなければ、一生、いのちはひらかないだろう。

 


自分自身を、客観的に評価して、あらゆる点で彼女にふさわしくないと判断してしまうこともある。学力とか、自分の容貌や肉体的条件といったものから、自分のすべてを、いつも相手より低くみてしまう。辛い。しかし自分に絶望しているだけでは意味がない。自分がいろいろな点で低いからと引っ込んでしまうのは、これは片思いでもないし、恋愛でもない

 


自分がその人を好きだという、その気持ちに殉ずればいい。どんなにすごい美人にでも、無視されてもいいから、彼女のそばで、気持ちを開けばいいんだ。愛情を素直に彼女に示すんだ。その結果、彼女から答えが得られようが得られなかろうが、お返しを期待せず自分の心を開くことで、自分自身が救われるはずだ。

 


お互い愛し合っていても、愛の度合いが同等のレベルだなんてことはあり得ないんだから、彼女がどう思おうと、自分は愛しているだと強烈に感じれば、その時片思いはほんとうの恋愛になる。そうすれば、いろんな意味での価値の差によっておじけづくなんて、むなしさは感じなくなるだろう。

 


彼女からいい答えを得たいと願っていてもそれはあくまで夢で、現実は己自身なんだから、孤独のなかでその夢を生かし、愛を深めればいいじゃないか。

 


片思いが恋愛だといえる。恋愛というのは、こちらが惚れれば惚れるほど、よろこびと同時に心配や不安といったものが起こってくる。ということはつまり片思いだろう。

 

 

 

自分を認めさせようとか、この社会の中で自分がどういう役割を果たせるんだろうとか、いろいろ状況を考えたり、成果を計算したり、そういうことで自分を貫こうとしても、無意味な袋小路に入ってしまう。今、この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ

 


人間の生命、生きるという営みは本来、無条件、無目的であるはずだ。何のためにこの世に来たのか。そして生きつづけるのか。ほんとうを言えば、誰も知らない。本来、生きること、死ぬことの絶対感があるだけなのだ。

 


自分を大事にしようとするから、逆に生きがいを失ってしまうのだ。己を殺す決意と情熱を持って危険に対面し、生き抜かなければならない。今日の、すべてが虚無化したこの時点でこそ、かつての時代よりも一段と強烈に挑むべきだ。

 


死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストをつくりだすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。