再読したくなる切り抜きブログ

読んだことのある「本」をもう一度読みたくするブログ

パンセ

パンセ

 


人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最もか弱いもの、しかしそれは考える葦だ。人間を押しつぶすのに宇宙全体が武装する必要はない。一吹きの蒸気、一滴の水だけで人間を殺すのには十分だ。しかし宇宙に押しつぶされようとも、人間は自分を殺すものより貴い。人間は自分が死ぬこと、宇宙が自分より優位にあることを知っているのだから。宇宙はそんなことは知らない。こうして私たちの尊厳の根拠はすべて考えることのうちにある。私たちの頼みの綱はそこにあり、空間と時間のうちにはない。空間も時間も、私たちが満たすことはできないのだから。だからよく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある。

 

 

 

この世のむなしさほど明白な事柄はないはずだが、それを知る人はほとんどいないので、栄光と権勢を求めるのは愚かしいと言うと、奇怪でめずらしい物言いに聞こえる。これこそ驚嘆すべきことだ。

 


船の舵取りを任せるのに、乗客の中で最良の家柄の者を選んだりしない。

 


想像力には愚者を賢明にすることはできない。しかし自分の友をみじめにすることしかできない理性を尻目に、愚者を幸福にする。理性は愚者を恥いらせるのに、想像力は栄光で包み込むからである。

 


各々、自らの思いを吟味しているがよい。それがすべて過去か未来に占められているのに気づくだろう。われわれはほとんど現在のことを考えない。考えるとすれば、未来を思い通りにするための光明を現在から引き出すためだ。現在は決してわれわれの目標ではない。過去と現在はわれわれの手段である。ただ未来だけが目標なのだ。こうしてわれわれは決して生きていない。生きようと願っているだけだ。そしていつでも幸福になる準備をしているものだから、いつになっても幸福になれるわけがない。

 

 

 

思い上がりはすべてのみじめさを埋め合わせる。それは、みじめさを覆い隠す。さもなければ、さらけ出した上で、みじめさを自覚していることを自慢する。

 


自分自身を知らなければならない。そうすれば、たとえ、真実の発見には役に立たないとしても、少なくとも自分の生き方を整えるのには役立つ。そしてこれほど正しいことはない。

 


知識には、互いに接する両極端がある。一方の端は、自然で生のままの無知であり、人間は全てこの状態で生まれる。他方の端は、人間の知のあらゆる可能性を踏破したあげく、何も知らないことを悟る偉大な魂の持ち主が辿り着く無知であり、ここで彼らは、出発点と同じ無知のうちにいる自分に出会う。

 


私たちは、人から「きみは頭が痛いのだろう」と言われても怒らないのに、「きみの推論は間違っている」とか「君の選択は間違っている」と言われると怒るが、それはどうしてか。

 


人間は、人からおまえは愚かだと言われつづけると、自分でもそう思うように造られている。そして自分に言い続けると、自らそう信じ込む。実際人間は、独りで内的な対話を交わしている。それをきちんと整えることが大切だ。

 


自分の尊厳の根拠、それを私は空間に求めてはならない。自分の思考を整えることに求めなければならない。私は、土地を所有したところで、優位に立つわけではない。空間によって、宇宙は私を包み込み、一個の点のように私を飲み込む。思考によって、私は宇宙を包み込んで理解する。

 


人間の偉大さは、自分がみじめであることを自覚しているところにある。一本の立ち木は自分がみじめだとは思わない。だから自分がみじめだと思うのはみじめだが、自分がみじめだと自覚するのは偉大なことだ。

 


これらすべてのみじめさが、まさに人間の偉大さの証拠となる。それは大領主のみじめさ、国を失った国王のみじめさだ。

 


人間の偉大さはきわめて明白なので、そのみじめさからさえも、偉大さを引き出すことができる。

 


私たちの思い上りときたら、全世界の人々に知られたい、いやそれどころか、私たちの死後にやってくる人々にも知られたいと願うほど強い。そして私たちのうぬぼれときたら、周囲の5.6人に評価されるだけで、いい気になって満足するほど軽薄だ。

 


人間はおのれのみじめさを自覚している。だから人間はみじめだ。事実、みじめなのだから。しかし人間は偉大だ。みじめなことを自覚しているのだから。

 


人間でありながら、天使になりたいと望んでも、自分のためには何の得にもならない。それでいささかでも上等になるわけではない。なぜなら、自分がいなくなったら、いったい誰がその改善を喜び、感ずるのか。安心、無痛、無感覚、要するに今生の不幸を免れることも、死という代価を払って得られるものなら、何の幸せにもならない。せっかく戦争を避けても、安息を味わうことができなければ無駄である。(モンテニュー)

 


私たちが生まれながらに不幸だということであった。不幸というのは、私たちがか弱く死すべき生涯に定められており、それを突きつめて考えると、何によっても慰められないほどみじめだからである。そんなわけで、国王も、いわゆる気晴らしなしには不幸になる。賭け事をして気を紛らわす、1番下っ端の臣下より不幸になる。

 


人間は、どれほど悲しみに満たされていても、何か気晴らしに引きずり込むことができれば、その間は幸せだ。そしてどんなに幸せであっても、悲しみの広がりを押しとどめるべく、何らかの情熱に気を取られたり、楽しみに気を紛らわせたりしなければ、ふさぎこみ、不幸になる。

 


君が自分自身に満足し、自分から生まれる善に安ずることができますように。