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生の短さについて

生の短さについて

誰一人として、みずからのために自らを自由にする権利を主張するものはいない。誰もが他人の誰かのためにみずからを消費しているのだ。

 


人は皆、あたかも死すべきものであるかのように全てを恐れ、あたかも不死のものであるかのように全てを望む。

 


生のこの期間は、自然のままに放置すれば早足に過ぎ去り、理性を用いれば長くすることのできるものであるが、君たちから逃げ去るのは必然である。なぜなら、君たちはそれをつかまえようとも、引き止めようともせず、「時」という、万物の中で最も早足に過ぎ去るものの歩みを遅らせようともせずに、あたかも余分にあるもの、再び手に入れることのできるものであるかのように、いたずらに過ぎ行くのを許しているからである。

 


真に生きることの自覚ほど希薄なものはない。もっとも、この生きることの智慧ほど難しいものもない。

 


過誤を超越した偉人の特性は、自分の時間が寸刻たりとも掠め取られるのを許さないことなのであり、どれほど短かろうと、自由になる時間を自分のためにのみ使うからこそ、彼らの生は誰の生よりも長いのである。

 


時間を残らず自分の用のためにだけ使い、一日一日を、あたかもそれが最後の日ででもあるかのようにして管理するものは、明日を待ち望むこともなく、明日を恐れることもない。

 


生きることにとっての最大の障害は、明日という時に依存し、今日という時を無にする期待てある。

 


君は運命の手中にあるものをあれこれ計画し、自分の手中にあるものを喪失している。君はどこを見つめているのか。どこを目指そうというのであろう。来るべき未来のものは不確実さの中にある。

 


自分の生のどの部分にも逍遥(あちこちをぶらぶら歩くこと。)できるのは、不安のない平静な精神の特権なのである。

 


それに反し、過去を忘れ、今をなおざりにし、未来を恐れる者たちの生涯は、極めて短く、不安に満ちたものである。

 


彼らは、思慮のなさから、自分が恐れる当のものへと突き進んでいく不安定な情緒に苦しめられるのである。彼らが死を望むのは、往々にして死を恐れているからに過ぎない。

 


他にはるかに勝る幸は、何にせよ不安に満ちており、幸運を当てにするにしても、最大の幸運ほど当てにして痛い目に遭うものは無い。幸運を維持するには別の幸運を必要とし、叶えられた願掛けに代わって別の願掛けをしなければならないのである。事実、偶然にやってきたものはすべて不安定なものであり、高く登れば登るほど、それだけ転落の危険は大きくなる。したがって、所有するにはなおさら大いなる苦労が必要なものを大いなる労苦をもって手に入れようとする者たちの生が、きわめて短いだけでなく、きわめて惨めなものであるのは当然なのである。

 


幸福からにせよ、不幸からにせよ、いずれにしても不安の種は尽きないのである。生は、こうして何かに忙殺され続けたまま、駆り立てられていく。閑暇は決して実現されることはなく、常に願望にとどまり続けるのである。

 


私が最も頻繁に見出す自分の心理といえば 私が恐れもし、厭い(嫌って避ける)もしていたものからいまだに解放されておらず、かといって、それにすっかり翻弄されているのでもない、という精神状態です。最悪ではないにしても、実に苛立たしく、厄介な状態に私は置かれています。

 


必要なのは、ある場合には自分の前に立ちふさがったり、ある場合には自分に怒ったり、ある場合には自分に対して辛くあたったりするといった、われわれがすでに卒業したかつての厳しすぎるほどの方法ではなく、最後にやってくる方法、つまり、自分を信頼することである。

 


心の平静は、どうすれば精神がみずからと穏やかに折り合い、みずからの特性を持って眺め、その喜びを断たずに、有頂天になることもなく、かといって鬱屈することもなく、静謐な状態を保ち続けれるかという問題である。この状態こそ、心の平静というものであろう。

 


この症例の結果は一つである。自己に対する不満がそれだ。その来たる因は、心の平衡の欠如と臆病な欲望、あるいは完全に満たされない欲望である。望むだけのことを思い切ってできなかったり、望むだけのことを達成できなかったりして、全てを希望に託す場合がそれにあたる。そのような人間は常に不安定で流動的であるが、何事においても中途半端な者の必然的な結果である。

 


こうして人は皆、絶えず己から逃れようとする

 


われわれが苦しむのは土地の欠陥のせいではなく、われわれ自身の欠陥のせいだという事実を知らねばならない。すべてを耐えるにはわれわれはあまりにも弱い存在であり、苦労にしても、快楽にしても、われわれ自身にしても、また、その他にいかなるものにしても、そう長くは耐えられないのである。

 


金銭の最善の高は、貧に落ちもせず、さりとて貧からさほど遠く離れていない額なのである。

 


自制心を鍛え、贅沢を控え、虚栄心を抑え、怒りを鎮め、貧しさを偏見のない目で眺め、質素を大切にし、たとえ多くの人がそれを恥じようとも、自然の欲求を満たすには安価で賄えるものを当て、手綱が切れたようなとめどない期待や、未来をひたすら待ち望む心に、いわば枷をはめる術、富を運命に求めるのではなく、われわれ自身に求めるようにする術を、われわれは学ぼうではないか。

 


慣れはたやすく耐える術を教える。君が、災いを敵対的なものにするのではなく、むしろ軽いものと考えるようにしようと思いさえすれば、どのような類いの人生にも喜びや安らぎや楽しみがあると分かるはずだ。

 


みずからの置かれた境遇に慣れ、できる限りそれを嘆くのはやめて、自分の周りにあるどんな長所をも見逃さずに捉えるよう努めねばならない。公平な心が慰めを見出せないほど過酷な運命などないのである。

 


誰かに起こりうることは、誰にでも起こりうる

 


多くのことをなす者は、往々にして、運に自分を支配する支配権を委ねることになるからである。運というものはめったに試さないのが最も安全なのだ。もっとも、運のことは絶えず考えておかねばならず、それを信頼してなにかの期待を自分に抱かせるようなことをしてはならない。

 


われわれは心を柔軟にし、予定したことに過度に執着し過ぎないようにもしなければならず、偶然の出来事がわれわれを導いた状況に順応し、静謐さの最大の敵である軽薄さが、取って代わって、われわれを支配しない限りは、計画や境遇の変化を恐れないようにもしなければならない。

 


何も変えることができないのも、何も我慢できないのも、ともに心の平静の敵なのである。

 


精神には、自己を信頼し、自己に喜びを見出し、自己の優れたものを尊び、できるかぎり他者のものから遠ざかって自己に専心し、損害を損害とも思わず、不運な出来事さえ善意に捉えるようにさせなければならない。

 


それゆえ、万事を軽く考え、万事に柔軟な精神で耐えるべきである。生を嘆くよりは生を笑い飛ばすほうが人間的なのである。加うるに、人間存在を嘆く者より笑う者のほうが人間存在にとってありがたい振る舞い方であるという事実もある。

 


笑う者は人間存在に幾ばくかの希望の余地を残してくれるのに対して、嘆く者は正せる見込みが無いと思うものに愚かにも涙するものである。

 


彼らが勇敢であったのなら、みずからの心にも彼らと同じ勇敢な精神が宿るように祈るがよい。

 


人は、勇敢であればあるほど、それだけ幸福なのだ。今や、あなたは全ての災厄を免れている、妬みも病も。今や、あなたは監禁を解かれて自由の身だ。それもこれも、神々の目にあなたが不運に値する人間に映ったからではなく、あなたがもはや運命が支配権を握るにふさわしくない人間と映ったからに他ならない

 


絶えず自分のことを気にするのは苦痛以外の何物でもなく、普段の自分と違った姿を見つけられるのではないかという恐れが常につきまとうり人に見られるたびに自分が評価されていると思うかぎり、われわれが心配から解き放たれることはない。なぜなら、いやでも裸の自分をさらけ出さざるをえない事態が多々生じるからであり、まあ、たとえ自分を繕って上手くいっても、常に仮面をつけて生きる者の生は楽しくもなく、心穏やかなものでもないからである。

 


一人きりでいること、群衆の中に入っていくこと、この二つが交互に繰り返さなければならない。

 


他の旅なら、目的地に通じるいずれかの道筋を見つけ出し、土地の人に尋ねさえすれば、迷うことはない。しかし、この旅にあっては、最も往来の激しい道こそ、最も人を欺く道なのである。だから、何よりも肝要とすべきは、羊同然に、前を行く群れに付き従い、自分の行くべき方向ではなく、皆が行く方向をひたすら追い続けるような真似はしないことである。

 


理性を判断基準にするのではなく、人と同じものであることを旨として生きることほど、大きな害悪の渦中にわれわれを巻き込むものはないのである。

 


実際、前を行く者に唯唯諾諾(事のよしあしにかかわらず、何事でもはいはいと従うさま。)として身を任せるのは害あって益なき行為であり、各人みずからが判断するよりも他人を信用するほうを選んでいる限り、生について決してみずから判断を下すことはなく、いつも他人を信用するだけだ。したがって、群衆から遠ざかりさえすれば、われわれはこの病弊から癒されるであろう。

 


なぜ本当に善きもの、誇示するためのものではなく、みずからが実感する善きものをこそ、追い求めようとしないのだ。人々が足を止めるもの、人々がお互いに喫驚し、ひけらかしあうものは、外見は煌びやかに見えても、内実はみすぼらしいものにすぎない。

 


幸福な生とはみずからの自然に合致した生のことであり、その生を手に入れるには、精神が、第一に健全であり、その健全さを永続的に保持し続ける精神であること、次には勇敢で情熱的な精神であること、さらに見事なまでに忍耐強く、時々の状況に適応し、己の肉体と、肉体に関わることに気を配りながらも過度に神経質になることなく、また、生を構築するその他の事物に関心を寄せながらも、そのどれ一つも礼賛することなく、自然の賜物を、それに隷属するのではなく、用に供する心構えでいる精神であること以外に道はない。

 


幸福な人とは、偶然的なものによって有頂天になることも意気粗相することもない。