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自省録

自省録

母からは、惜しみなく与えること。悪事をせぬのみか、これを心に思うさえも控えること。また金持ちの暮らしとは遠く離れた簡素な生活をすること。

 


祖父からは、学びに大いにお金を使うこと。

 


苦労に耐え、寡欲であること。自分のことをやって、余計なおせっかいをせぬこと。中傷に耳をかさぬこと。

 


腹を立てて自分に無礼をくわえた人々に対しては和解的な態度を取り、彼らが元へもどろうとする時には即座に寛大にしてやること。

 


独立心を持つこと、絶対に僥倖(偶然に得る幸せ)を頼まぬこと。たとえ一瞬でも、理性以外の何ものにも頼らぬこと。ひどい苦しみの中にも、子を失ったときにも、長い患いの間にも、つねに同じであること。

 


親切をほどこすこと、すすんで与えること。希望を持つこと、友人の友情に信頼すること。

 


克己(自分に打ち勝つこと)精神と確固たる目的を持つこと。色々な場合、たとえば病気の場合でさえも、きげん良くしていること。優しいところと厳格なところがうまくまざり合った性質。目前の義務を苦にせず果たすこと。

 


名誉に関して空しい虚栄心をいだかぬこと。

 


あらゆることにおいて自足(自ら満足する)ことおよび快活さ。

 


彼ら(恩知らずや、裏切り者や、横柄な奴)のうち誰一人私を損ないうる者はない。というのは誰ひとり私を恥ずべきことに巻き込む力はないのである。

 


これ以上理性を奴隷の状態におくな。利己的な衝動にあやつられるがままにしておくな。また現在与えられているものにたいして不満を持ち、未来に来るべきものにたいして不安を抱くことを許すな。

 


思い起こせ、君はどれほど前からこれらのことを延期しているか、またいくたび神々から機会を与えて頂いておきながらこれを利用しなかったか。しかし今こそ自覚しなければならない。

そして君には一定の時の制限が加えられており、その時を用いて心に光明を取り入れないなら、時は過ぎ去り、君も過ぎ去り、機会は二度と再び君のものにならないであろう。

 


人の一生は短い。それなのに君は自己にたいして尊敬をはらわず、君の幸福を他人の魂の中に置くようなことをしているのだ。

 


他人の魂の中に何が起こっているか気をつけていないからといってらそのために不幸になる人はそうたやすく見れるものではない。しかし自分自身の魂のうごきを注意深く見守ってない人は必ず不幸になる。

 


つぎのことを覚えておくべし、宇宙の自然とはなんであるか。私の(内なる)自然とはなんであるか。後者は前者といかなる関係にあるか。それはいかなる全体のいかなる部分であるか。また君がつねに自然、君はその一部分である。

 


なによりもみじめな人間は、隣人の心の中まで推量せんとしておきながら、しかも自分としては自己の内なるダイモーン(理性、人間の内なる神的部分)の前に出てこれに真実に仕えさえすればよいのだと言うことを自覚せぬもの。

 


たとえ君が3000年生きるとしても、記憶すべきはなんぴとも現在生きている生涯以外の何ものも失うことはないということ、またなんぴとも今失おうとしている生涯以外の何ものも生きることはない、ということである。

したがって、もっとも長い一生ももっとも短い一生と同じことになる。なぜなら現在は万人にとって同じものであり、(したがって我々の失うものも同じである。)ゆえに失われる時は瞬時にすぎぬように見える。なんぴとも過去や未来を失うことはできない。自分の持っていないものを、どうして奪われることがありえようか。であるから次の二つのことを覚えていなくてはいけない。

第一に万物は永遠の昔から同じ形をなし、同じ周期を反復している。したがって無限にわたって見ようと、なんの違いもないということ。

第二に、もっとも長命の者も、もっとも早死にする者も、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失うるものは現在だけなのである。というのは彼が持っているのはこれのみであり、なんぴとも自分の持っていないものを失うことはできないからである。

 


すべては主観であること。その真実である限り受け入れるならば、その効用も明白である。

 


公益を目的とするのではないかぎり、他人に関する思い出で君の余生を消耗してしまうな。「どう思っているんだろう?」、こんなことが皆君を呆然とさせ、自己の内なる指導理性を注意深く見守る妨げとなるのだ。

 


また我々はあらゆる人の意見を守るべきではなく、ただ自然に従って生きる人の意見のみを守るべきであることを記憶している。これ以外の生き方をしている人々の賞賛などなんら問題にしない。というのはこういう連中は自分自身をさえ満足させられない人たちなのである。

 


人にまっすぐ立たせられるのではなく、自らまっすぐ立っているのではなくてはならない。

 


他のものは全部投げ捨ててただこれら少数のことを守れ。それと同時に記憶せよ、各人はただ現在、この一瞬に過ぎない現在のみを生きるのだということを。

 


そして自分が誠実に、謙遜に、善意をもって生活しているのをたとえ誰も信じてくれなくても、誰にも腹を立てず、人生の結局目的に導く道をはずしもしない。その目的に向かって純潔に、平静に、何の執着もなく、強いられもせずに自ら自己の運命に適合して歩んでいかなくてはならないのである。

 


我々の内なる主が自然に従っている際には、許されるかぎり、出来事にたいしてつねにたやすく適応しうるような態度を取るものである。

なぜならば、彼は特にこれという一定の素材を好むわけではなく、その目的に向かって、ある制約の下に前進する。そしていかなる障害物にぶつかろうともこれを自分の素材となしてしまう。この点あたかも火が投げ込まれたものを捕らえる場合に似ている。小さな灯りならば、これに消されてしまうであろうが、炎炎と燃える火は、持ち込まれたものをたちまち自分のものに同化して焼き尽くし、投げ入れられたものによって一層高く踊りあがるのである。

 


そしてもういい加減に心を鎮めたらどうだ

つまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみやかに来るか見よ。

 


君自身の内なるこの小さな土地に隠退することをおぼえよ。なによりもまず気を散らさぬこと、緊張しすぎぬこと、自由であること。そして男性として、人間として、市民として、死すべき存在として物事を見よ。そして君が心を傾けるべきもっとも手近な座右の銘のうちに、つぎの2つのものを用意するがよい。その一つは、事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいのはただ内心の主観からくるものにすぎないということ。もう一つは、すべて君の見るところのものは瞬く間に変化して存在しなくなるであろうということ。そしてすでにどれだけ多くの変化を君自身見とどけたことか、日夜これに思いをひめよ。

 


宇宙即変化、人生即主観

 


「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という感じを取り除くが良い。そうすればその損害も取り除かれてしまう。

 


君に害を与える人間がいだいている意見や、その人間が君にいだかせたいと思っている意見をいだくな。あるがままの姿で物事を見よ。

 


隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬虔(深く敬って態度を慎むさま)であるように慮るものは、何と多くの余暇か得ることであろう。{他人の腹黒さに目を注ぐのは善き人にふさわしいことではない}目標に向かってまっしぐらに走り、脇見をするな。

 


名声とはそれがいったい君にとってなんであろうか。いうまでもなく、死人にとっては何ものでもない。また生きている人間にとっても、賞賛とはなんであろう。せいぜいなにかの便宜になるくらいが関の山ぁ。ともかく君は現在自然の賜物をないがしろにして時機を逸し、将来他人がいうであろうことに執着しているのだ。

 


善い行為をすることからくる安らかさのみならず、少しのことしかしないということからくる安らかさをもたらす。というのは我々のいうことやなすことの大部分は必要事ではないのだから、これを切り捨てればもっと暇ができ、いらいらしなくなるであろう。それゆえにことあるごとに忘れずに自分に問うてみるがよい。「これは不必要なことの一つではなかろうか」と。しかし我々は単に不必要な行為のみならず、不必要な思想をも切り捨てなくてはならない。そうすれば余計な行為も引き続いて起こってくる心配はないであろう。

 


「全体」の中から自分に割り当てられた分に満足している人、自分自身の行為を正しくし、態度を善意に満ちたものにすることで満足している人、このような善い人の生活がうまくいくかどうか君もやってみよう。

 


では我々の熱心を注ぐべきものはなんであろうか。ただこの一事、すなわち正義にかなった考え、社会公共に益する行動、嘘のない言葉、全ての出来事を必然的なものとして、親しみあるものとして、また同じ源、同じ泉から流れ出るものとして歓迎する態度である。

 


君の不幸は他人の指導理性の中に在するわけではない。また君の環境の変異や変化の中にあるわけでもない。しからばどこにあるか。なにが不幸であるかについて判断を下す君の能力にある。ゆえにその能力をして判断を差し控えさしめよ、しからばすべてがよくなるであろう。たとえそのもっとも近い隣人、すなわち小さな肉体が切断され、焼かれ、化膿し、壊疽に陥っても、これらのことについて判断を下す部分をして平安であらしめよ。すなわち悪人にも善人にも同じように起こりうることを、悪とも善とも判断せしむるな。なぜならば自然に反した生活をなす者の上にも自然にかなった生活をなす者にも同じように起こってくる事柄は、自然にかなうことでもなければ自然に反することでもないのである。

 


変化することは物事にとっては悪いことではない、同様に変化の結果として存続することは物事にとって善いことではない。=【変化し続けなければならない】

 


波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。「なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは」否、その反対だ、むしろ「なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしない」である。なぜなら同じようなことは万人に起こりうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗てないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意思に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いや、その意志というのは君も学んだはずだ。君に起こったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙遜であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら

次の信条を忘れるな。曰く「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」

 


すべて自然にかなう言動は君にふさわしいものと考えるべし。その結果生ずる他人の批評や言葉のために横道にそれるな。もしいったりしたりするのが善いことなら、それが自分にとってふさわしくないなどと思ってはならない。他人はそれぞれ自分自身の指導理性を持っていて、自分自身の衝動に従っているのだ。君はそんなことにはわき目もふらずにまっすぐ君の道を行き、自分自身の自然と宇宙の自然とに従うがよい。この二つのものの道は一つなのだから。

 


つねに信条通り正しく行動するのに成功しなくとも、胸を悪くしたり落胆したりするな。失敗したらまたそれに戻っていけ。そして大体において自分の行動が人間としてふさわしいものならそれで満足し、君が再び戻って行ってやろうとする事柄を愛せよ。

 


大きい心、自由、誠実、温情、敬虔これらの方が快楽よりももっと愉快ではないだろうか。実際知恵それ自体よりも愉快なものがあるだろうか。理解と知識の能力があらゆる場面において確実な働きをなし、いかなる成功をおさめるかを考えてみればわかることだ。

 


※ 知識は、ある物事について知っていること。知恵は、物事の道理を判断し、適切に処理する能力

 


ある人が大衆の善いと考えるものを自分も善いと考えるならば、喜劇詩人の言葉を適切なものとして聞き、これを唯々諾々として受け入れるであろう。かように一般大衆さえもこの相違を認識する。富や名声といったようなものを尊重し、善いものと見なすべきかどうか。このようなものとはまずよく考えてみれば、その所有者をしてその富のためについに「厠に行くところさえな」からしむるていのものである。

 


※徳…精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。

 


物事自体は我々の魂にいささかも直接触れることはできない。また魂へ近づくこともできなければ、その向きを変えたりこれを動かしたりすることもできない。ただ魂のみが自分自身の向きを変え、身を動かし、なんなりと自分にふさわしく思われる判断に従って、外側から起こってくる物事を自分のために処理するのである。

 


すべての存在は絶え間なく流れる河のようであって、その活動は間断なく変り、常なるものはほとんどない。我々のすぐそばには過去の無限と未来の深淵とが口を開けており、その中にすべてのものが消え去って行く。このようなものの中にあって、得意になったり、気を散らしたり、または長い間ひどく苦しめられている者のように苦情をいったりする人間はどうして愚か者ではないであろうか。

 


君の理性的な態度によって相手の理性的な態度を喚起したらいいだろう。

 


もしこれが私の悪徳でもなく、私の悪意の結果でもなく、公共の利益を損なうものでもなければ、私はそんなことをなぜ気にかける必要があろう。

 


感覚的な思念(感情?)によって全心を奪われぬようにせよ。それよりも自分の力に従い、人の価値に応じて人を助けよ。どうでもよい事柄において(他人が)失敗したとしても大した損害に考えるな。それは悪い習慣だ。

 


どんな運命に遭おうとも幸運な人間であった。「幸運な」とは自分自身にいい分け前を与えてやった人間のこと、いいわけ前とは良い魂の傾向、よい衝動、よい行為のことである。

 


君が自分の義務を果たすにあたって寒かろうと熱かろうと意に介すな。また人から悪く言われようと褒められようと他のことをしていようとかまうな。それゆえにこのことにおいてもやはり「現在やっていることをよくやること」で足りるのである。

 


「またある時、どうするのが1番よいかと訊ねられて、現にあるものをうまく利用することだと答えた」

 


何を尊ぶべきか。拍手喝采されることか、否、では何が尊ぶべしものとして残るか。私の考えでは、自己の(人格の)構成に従ってあるいは活動し、あるいは活動を控えることである。

しかし、多くの他のことを尊ぶのをやめないつもりなのか。それなら君は自由の身にもなれず、自足した人間にもならず、また激情に動かされぬ者ともならないであろう。

 


もしある人が私の考えや行動が間違っているということを証明し納得させてくれることができるならば、私は喜んでそれらを正そう。なぜならば私は真理を求めるのであって、真理によって損害を受けた人間のあったためしはない。これに反し自己の誤謬と無知の中に留まる者こそ損害を被るのである。

 


君の肉体がこの人生にへこたれていないのに、魂のほうが先にへこたれるのは恥ずかしいことだ。

 


正気に返って自己を取り戻せ。目を覚まして、君が悩ましていたのは夢であったのに気づき、夢の中のものを見ていたように、現実のものをながめよ。

 


脆く儚き人生そのものを嘲笑する人たちもことごとくかしこへ行ってしまった。この人たちが皆ずっと前から死んで墓に横たわっていることを考えよ。彼らにとってなんの恐るべきことがおろうり

この世で大きな価値のあることは一つ、嘘つきや不正の人々に対しては寛大な心を抱きつつ、真実と正義の中に一生を過ごすことである。

 


君が自分に楽しい思いをさせてやりたいと思うときには、君と一緒に生活している人々の長所を考えてみるとよい。なぜならば徳の姿が我々とともに生きている人々の性質の中に現れていることほど、喜ばしいことはないからだ。

 


君に割り当てられたら物質の量だけで満足しているように、時についても同じく満足せよ。

 


名誉を愛する者は自分の幸福は他人の中にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。

 


私は物事について自分の持つべき意見を持つことができる。それができるなら、なぜ私は心を悩ませるのだ。私の精神の外にあるものは、私の精神にとってなんのかかわりもない事柄だ。このことを学べ、そうすれば君はまっすぐ立つ。

 


未来のことで心を悩ますな。必要ならば君は今現在のことに用いているのと同じ理性をたずさえて未来のことに立ち向かうであろう。

 


これを感じるものにたいしてなんなりと外側から起こりたいことが起こるがよい。これを感ずるものは、ぶつぶついいたければいうであろう。しかし私は、自分に起こったことを悪いことと考えさえしなければ、まだなんら損害を受けていないのだ。そう考えない自由は私にあるのだ。

 


誰がなにをしようと、なにをいおうと、私は善くあらねばならない。それはあたかも金かエメラルドか貝殻が口癖のようにこう言っていたとするのと同じことだ。「誰がなにをしようと言おうと、私はエメラルドでなくてはならない。私の色を保っていなくてはならない」と。

 


変化を恐れる者があるのか。しかし変化なくしてなにが生じえようぞ。宇宙の自然にとってこれよりも愛すべく親しみ深いものがあろうか。

君自身の変化も同様なことで、宇宙の自然にとっても同様に必要であるのがわからないのか。

 


存在しないものを、すでに存在するものと考えるな。それよりも現存するものの中からもっとも有難いものを数え上げらもしこれがなかったら、どんなにこれを追い求めるだろうかということを、これに関して忘れぬようにせよ。

 


物事に対して腹を立てるのは無益なことだ。なぜなら物事の方ではそんなことお構いなしなのだから

 


昔起こった出来事をよくながめ、現在おこなわれつつあるすべての変化をながめれば、未来のことも予見することができる。

 


至るところ、至る時において君にできることは、現在自分の身に起こっている事柄に対して敬虔(深く敬って態度をつつしむさま)満足の念を抱き、現在周囲にいる人々にたいして正義にかなった振る舞いをなし、現在考えていることに全注意を注ぎ、充分把握されていないものはいっさいそこに忍び込む余地はないようにすることである。

 


自分に起こることのみ、運命の糸が自分に織りなしてくれることのみを愛せよ。それよりも君にふさわしいことがありえようか。

 


なにかことの起こる度ごとに、同様なことが起こったとき悲しんだり、驚いたり、非難したりした人たちを思い浮かべるとよい。彼らは今どこにいるか。どこにもいない。ではどうだ。君も彼らの真似をしたいのか。ああいう他人の態度はそれを取る人、取られる人に任しておいたらどうなのだ。そして自分はいかにしてこの出来事を生かすべきかということに専念したら良い。

「そして次の二つのことを記憶せよ。行為の機会はどうでもよい、そのやり方のみが問題なのだ。」

 


たとえ万人が君に抗して勝手なことを叫ぼうとも、たとえ野獣どもが君のまわりに厚く蓄積した肉体の四肢を八つ裂きにしようとも。なんの強制を受けることなく、喜びに満ちた心で生涯を過ごせりすべてかかる苦境において自分の心を平静に保ち、周囲の物事に関して正しい判断を持ち、遭遇するものを常によく利用するだけの心構えをしておくのになんの差し支えがあろうか。

 


一つ一つの行為に際して自ら問うて見よ。「これは自分といかなる関係があるか。これを後悔するようなことはないだろうか」と。瞬く間に私は死んでしまい、それまでのこともすべて過ぎ去ってしまう。現在私のなすことが、叡智を持つ。

 


「読書は君に許されていない」しかし横柄な振る舞いは抑えることはできる。快楽や苦痛を超越することはできる。つまらぬ名誉欲を超越することはできる。粗野な人々や恩知らずの人々に腹を立てぬこと、それのみか彼らの面倒まで見てやることはできる。

 


苦痛は肉体にとって悪いことであるか、それならば肉体はそうはっきり言うがいい、さもなくば魂にとって悪いことである。ところが魂は、自分自身の晴れやかさと安らかさとを守り、それを悪いことと考えないでいることができる。なぜならば、もろもろの判断と衝動と欲望と嫌悪とは我々の内側の事柄であって、何ものもそこまであがり込むものはないからである。

 


我々はつぎの能力をもこの自然から与えられている。すなわちあたかも自然が自己に干渉するものや反対するものをことごとく自己の目的にかなうように形成し、運命の定めた秩序の中へ整理し、自己の一部となしてしまうがごとく、理性的動物もその目的とするところがなんであろうと、あらゆる障害物を自己の素材としてそのため利用することができるのである。

 


君の全生涯を心に思い浮かべて気持ちを掻き乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことのなにが耐え難く忍び難いのか」と。まったくそれを告白するのは君は恥じるだろう。つぎに思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、つねに現在であることを。しかしこれもそれだけ切り離して考えみれば小さなことになってしまう。またこれっぱしのことに対抗することができないような場合には、自分の心を大いに責めてやれば結局なんでもないことになってしまう。

 


現在の時を自分への贈り物として与えるように心がけるがよい。それよりも死後の名声を追い求める人は、次のことに気がつかないのだ。すなわち、未来の人たちも、現在重荷に思われる人々とまったく同じような人間であり、やはり死すべき人間であるということである。いずれにせよ、その人たちが君についてこれこれの反響を示したり、君についてこれこれの意見を持つとしたところで、それがいったい君にとってなんであろうか。

 


君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなく、それに関する君の判断なのだ。ところがその判断は君の考え一つでたちまち抹殺してしまうことができる。また君を苦しめるものが何か君自身の心の持ちようの中にあるものならば、自分の考え方を正すのを誰が妨げようか。

 


最初の知覚が報告するもの以上のことはいっさい自分にいってきかすな。誰それが君のことをひどく悪く言っている、と人に告げられた。これは確かに告げられた。しかし、君が損害を受けた、とは告げられなかった。かように、常に最初の知覚に留まり、自分の中から何ものもこれに加えないようにすへざ、君に何ごとも起こらないのである。

 


1時間のうちに3度も自分自身を呪うような人間に君は褒められたいのか。自分自身にも気に入らないような人間に気に入られたいのか。自分のやったことのほとんど全部を後悔するような人間が、自分自身に気に入っているといえようか。

 


他人が君を非難したり、憎んだり、これに類した感情を口に出したりするときには、彼らの魂へ向かって行き、その中に入り込み、彼らがどんな人間であるか見よ。そうすれば彼らが君についてなんと思おうと気にする必要はないということが君にわかるだろう。しかし君は彼らに対して善意を持たねばならない。

 


外的な原因によって生ずることにたいしては動ぜぬこと。君の中からくる原因によっておこなわれることにおいては正しくあること。これはとりもなおさず公益的な行為に帰する衝動と行動である。なぜならこれが君にとって自然にかなったことなのだから。

 


神々は何もできないか、それとも何かできるか、そのいずれかだ。もしなにもできないならば、どうして君は祈るのだ。もし何かできるならば、これこれのことが起こるようにしてくれとか起こらないようにしてくれとか祈るよりも、これらの中の何ものにも恐れず、何ものも欲せず、何ものについても悲しまぬようにしてくださいとなぜ祈らないのか。

 


他人の温厚無知に腹の立つとき、ただちに自ら問うてみよ、「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありえるだろうか」と。ありえない、それならばありえぬことを求めるな。

ところで君はどんな被害を被ったのか。君が憤慨している連中のうち誰一人君の精神を損なうことをした者はないのを君は発見するであろう。君にとって悪いこと、害になることは絶対に君の精神においてのみ存在するのだ。

君が他人の不忠と恩知らずを責めるとき、なによりもまず自分をかえりみるがよい。なぜなら君がかかる性質の人を信頼して、彼が君にたいして忠誠を守るであろうと思ったとしても、また恩恵を施してやる場合に徹底的に施さなかったり、君の行為からただちにすべての実を収めうるような具合に施さなかったとしても、いずれの場合にも明らかに君の方が悪いのだ。

人に善くしてやったとき、それ以上のなにを君は望むのかり君が自己の自然に従って何事か行ったということで充分ではないのか。その報酬を求めるのか。それは眼が見えるからといって報いを要求したり、足が歩くからといってこれを要求するのと変わりない。なぜならば、各々がそのことによって自己の本分を全うするように、人間も親切をするように生まれついているのであるから、何か親切をしたときは、彼の創られた目的を果たしたのであり、自己の本分を全うしたのである。

 


他人が彼についてなにをいい、なにを考えるか、また彼に対してなにをなすか、などということは心に思い浮かべさえしない。彼はつぎの二つのことで満足している。すなわち現在の行動を正しく果たすこと、および現在自分に分け与えられているものを愛することである。

 


あらゆることにおいて理性に従う者は、悠然とかまえていながら同時に活動的であり、快活でありながら同時に落ち着いているものである。

 


すべてを与え、また奪い取る自然に向かって、教養ある慎み深い人間はつぎのようにいう。「あなたの欲するものを与え、あなたの欲するものを奪ってください」と。ただし彼はそれを強がりでいうのではなく、ただ自然に対する従順と善意から言うのである。

 


宇宙の自然が個々のもたらすものは個々のものにとって有益なものである。しかもこれをもたらすその時において有益なのである。

 


宇宙もまた起こるべき事柄を好むのだ。ゆえに私は宇宙にいう、「あなたとともに私も好みます」と。同じような言い方を我々もするではないか、「このことは好んで起こる」と。

 


いかなる出来事に対しても悲しんだり不服をいだいたりする人間はみな、出荷される子豚がじたばたして叫ぶのにも似たものと考えるがよい。また寝床こ上でひとり黙して我々の不幸を嘆く人間もこれに似ている。さらに思うべきは、ただ理性的動物のみ自分の意思を持って出来事に従うことが許されているが、他のあらゆるものは単なる服従のみを強いられているということである。

 


他人の過ちが気に触る時には、即座に自ら反省し、自分も同じような過ちを犯していないかと考えてみるがよいりたとえば金を善いものと考えたり、または快楽、つまらぬ名誉、その他類のものを善いものと考えるがごときである。このことに注意を向け、さらにつぎのことに思い至れば、君はたちまち怒りを忘れるであろう。それは「彼は強いられているのだ。どうにもしようがないではないか」という考えである。

 


君に関して、誠実でないとか、善い人間でないとか、真実にもとらずにいえる権利をなんぴとにも与えてはならない。君についてそんな考えを持つ者は、誰でも嘘つきにしてやるがいい。君の考え一つでどうにでもなることだ。

 


健全な目は、なんでも見える物を見るべきであって、「私は緑色のものが見たい」などというべきではない。したがって、「私がなにをしようとも皆のものに賞賛されますように」などという精神は緑色のものを要求する目であり、柔らかいものを要求する歯である。

 


これを避けたり追求したりするのが悩みの種になるような、そういう事柄が自分の方から君のところへやって来ず、いわば君の方からそういう事柄の方へ出向いていくのならば、少なくともこれに関する君の判断は平静なものにしておかなくてはいけない。そうすればその事柄もじっとしているであろう。またこれを追求したりしている君の姿も見られなくなるであろう。

 


誠実で善い人間というものは、彼に近づくと同時に、否応なしにそれに気がつくようでなくてはならない。善き人、誠実な人、親切な人はそれらの特徴を目の中に備えており、それは人に気づかれずに済むものではない。

 


腹を立てたときにすぐ役に立つ思想としてつぎのことを考えるがよい。怒るのは男らしいことではない。柔和で礼節あることこそ一層人間らしく、同じく一層男らしいのである。そういう人間は力と筋力と雄々しい勇気とを備えているが、怒ったり不満を抱いたりする者はそうではない。なぜならばその態度が不動心に近づくほど、人は力に近づくのである。

 


人は各々自分を他の誰よりも愛していながら、自分に関する自分の意見を、他人の意見よりも重んじないのはどういうわけだろう、と私はしばしば怪しんだ。いずれにせよ、もしある神、もしくは賢い教師がある人のもとへやって来て、同時に口に出していうのでなければなにも心に思ったり考えたりしてはならない、と命令したら、1日たりとも我慢できないであろう。かように我々は隣人たちの我々に関する意見を、我々自身の考えよりも尊重するのである。

 


皮殻を除いた裸のままの姿でもろもろの形相因*をながめよ。またもろもろの行動の目的を。苦痛とはなにか。快楽とは。死とは。名誉とは。人の内心の不安の責任は誰にあるか。なんぴとも他人に束縛されえないこと。すべては主観にすぎぬこと。

*事物をして事物たらしめる本質規定。 たとえば、家に関し、建築家の心の中にある設計図のようなもの。

 


だからもしイライラするなら、この態度を直せ。

 


第一に、何事もでたらめに、目的なしにやってはならない。第二に、交易以外の何ものをも行動の目的としてはならない。

 


すべては主観にすぎないことを思え。その主観は君の力でどうにでもなるのだ。したがって君の意のままに主観を除去するがよい。するとあたかも岬をまわった船のごとく眼前にあらわれるのは、見よ、凪と、まったき静けさと、波もなき入江り

 


人生における救いとは、一つ一つのものを徹底的に見極め、それ自体なんであるか、その素材はなにか、その原因はなにか、を検討するにある。心の底から正しいことをなし、真実を語るにある。残るは一つの善事。他の善事ひ次々とつないで行き、その間にいささかの間隙もないようにして人生を楽しむ以外になにがあろうか。