再読したくなる切り抜きブログ

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ツァラトゥストラ

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ルサンチマン=「ねたみ」や「うらみ」の意味です。例えば「なんで自分はもっと容姿に恵まれなかったのか」「なんで、自分たちばかりこんな不況のなかで就職活動をしなければならないのか」といったようなことです。「もし違った環境ならば、自分はもっと幸せだったはずなのに」という「たられば」の気持ちを抱えることは、誰もが経験あることでしょう。

しかし、ニーチェにいわせれば、この想いをずっと抱いていると、なにより自分自身を腐らせてしまいます。「では、この状況のなかで私はどう生きるか」という前向きの気持ちを持てず、受け身の姿勢になってしかねない。

 


何を信じてよいかわからないこの世で、人間はどうやって生きていったらよいか?

この答えについて、一言で言うならば、「固定的な真理や価値はいらない。君自身が価値を創造していかなくちゃいけない」というもの。

 


ルサンチマンの根っこにあるのは、自分の苦しみをどうすることもできない無力感です。そして絶対認めたくないけれども、どうすることもできない怒りの歯ぎしり。そこで、この無力感からする怒りを何かにぶつけることで紛らわそうとする心の動きが起こる。これがルサンチマンです。

このルサンチマンがなぜ問題かというと、「自分を腐らせてしまう」からです。よりニーチェに即して言いますと、悦びを求め悦びに向かって生きていく力を弱めてしまうことが問題です。そして「この人生はこう生きよう」という、自分として主体的に生きる力を失わせてしまうことが二つ目の問題点です。

 


神を用いることで現実の強弱を反転させ「心理的な復習」を果たすことができる。自分が気持ちよくなって自己肯定するのではなく、強い他者を否定することで自己肯定する。これこそが「僧侶的価値評価法」の本質なのです。

 


受動的に流されるのをやめて、「私はこうする!」と意欲すること。自分のキャンパス、でこぼこしていて、色あせたところもあるかもしれない、決して真っ白ではないキャンバスに、私はどんな色を塗るか?そう問いかける姿勢になった時、はじめて人は人生の主役となり自由な存在となる。ニーチェはそう言いたいのでしょう。

 


「お前たちは自分自身で自分の道を見つけなければならない」と言っています。一人ひとりが自分なりに生きる実験を行い、自分なりに創造的な方向を見つけていくことが重要なのであって、一つの絶対的な目標にみんなが向かうというのは、ニーチェからすればダメなのです。

 


頼らないのが自立ではなく、助力が必要ならばそれをきちんと他人に伝えられることが自立なのです。

 


しかしいま「神は死んだ」わけですから、「あの世の物語」に代わってニーチェは生きることを肯定するための新しい物語を提供しなければなりません。その物語は人々に非常に厳しい生き方を迫るものではある。でも、それを受け入れることによって、必ずや自分の生を肯定するほうへとつなげていけるはず、とニーチェは考えたのです。

 


人生には苦悩があります。そして苦悩と無力感からは「ルサンチマン」つまり反動的な復讐心が生まれます。しかし永遠回帰は、「もしお金持ちに生まれてさえいれば」「もしもっと容姿がよかったら」、そんな「たら・れば」を無効にしてしまう。そして他ならぬ自分の人生を「これでよし、もう一度」と肯定するほうに向かわせる、このような生の肯定のためにつくられた物語が「永遠回帰」なのです。

 


永遠回帰をどう具体的に受け止めるかという点では、二つの解釈がある。

一つ目は、永遠回帰の一番大切なところは「たとえ無限に繰り返されようとも決して後悔せず自分が1番納得のできることを行為せよ」という点にある。このように、これらの生き方を示してくれる点を永遠回帰思想の核心と見なすのです。

そしてもう一つの方向は、「人生のなかで一度でも本当に素晴らしいことがあって、心から生きていてよかったと思えるならば、もろもろの苦悩も引き連れてこの人生を何度も繰り返すことを欲しうるだろう」というものです。たった一度でも、素晴らしい「悦び」があれば、生きることを肯定でき何度でも人生を繰り返すことができるのではないか。

 


ルサンチマンの状態からどうやって抜け出るか。多くの場合は、しばらくうめいたり呪ったりしながら、時間が経つにつれて「しかたがない」と思いはじめて、受け入れていくでしょう。ところがニーチェは「しかたなく」受け入れるのではまだまだで、「それを欲した」にしなくてはいけない、すなわち「失恋をしてよかった」としなければならないというのです。

 


苦しみも与えたが悦びを作り出すきっかけにもなっている。そう考えるならば、マイナスを含めて自分の人生を肯定できる。そしてその人生を何度も繰り返そうと思えるのかもしれません。

このように人生の苦しい物事を有益と認め、愛そうとすることを、ニーチェはを運命愛」と呼びました。

 


「失恋や就職できないことを有益なこととはどうしても思えない」という人もいるかもしれません。たしかにマイナスを「有益」とまで考えなくてもいいのかもしれません。しかし、ルサンチマンに負けないで生きていくためには、マイナスを「規定条件」(あらかじめ定まっているもの)として考えることは、必要であると思います。

 


なぜルサンチマンは良くないのでしょうか?ルサンチマンとは「無力感から生まれる復讐心」のことですが、解説者なりの言い方をすれば、前向きな力「損なうことが問題なのです。

まず第一に、それは「自分が人生の主人公であるという感覚ーを失わせる。自分の人生を自分でコントロールしていけると思える「能動的」な感覚、これをだめにする。さらにもう一つ、「みずから悦びを求めて汲み取ろうとする力」失わせる。たとえば、同じ時間で仕事をする時に、嫌々ながらやることもできるし、悦びを得ようとすることもできますよね。ルサンチマンとは「ブーたれ」ですから、自分から動く能動性を失わせてしまい、「文句をいう」という微弱な快感とひきかえに、積極的な悦びを汲み取ろうとする力を損ねてしまうのです。

 


「この条件のもとで、自分はどうやって悦びを汲み取っていく道があるか、と自分で考えるしかない。なぜならそれ以外に自分が能動的に生きていく方法はないのだから」

 


自分の条件を呪ってもしかたがない。そうではなく条件は「規定」のものと考える。それぞれの人間が、それぞれの条件のもとでどうやって悦びを汲み取るかというゲームをやっていると考える。

 


どういう悦びを求めればいいのでしょうか。もちろんこれは、あなたが決めるしかないのです。神がいないのですから、唯一正しい生き方も、唯一正しい悦びもありません。そうではなく、「私が求めているのは何だろうか」と自分自身に静かに尋ねてみればいい。私が大切にしてきたものは何だったかな、どんなことが自分にとって悦びだったかならとあらためて自分に問いかけること。この問いだけが、生きる方向を教えてくれる。

 


しかしすぐにはこの状況を受け入れられないのであれば、呪って叫ぶしかないし、その方がむしろ良い。自分のルサンチマンを誤魔化したり押さえつけたりするくらいなら、自分がこれを受け入れられないことをはっきりと認めよ。そして、叫べ、呪えと言っている。

 


「われわれの魂が一回だけでも!絃のごとく幸福のあまり震えて響きをたてたなら、このただ一つの生気を引き起こすためには、全永遠が必要であった」

たった一度でも本当に魂が震えることがあるなら、その人生は生きるに値するだろう。悲しみ、苦しみをひきつれて「よしもう一度この人生を」といいうるだろう。

 

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ニヒリズムな時代の中で、「では何ができるのか」と考えたときに、もしあなたが「自分の人生を自分で作っていく主役でありたい」と願うならば、この状況で「何が自分を悦ばしくするか」を問う以外にはありません。