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純粋理性批判批判

純粋理性批判

 


カントの純粋理性批判で、人間は、主観の外にある「物自体」を直接には認識できません。人間が認識しているのは、それぞれの主観に映った世界。

 


私が存在している理由、つまり「使命」が与えられれば、何を目指して生きればよいかわかる、と思えるからでしょう。著者自身も若い時、他者とどう関わり何を目指して生きていけば良いか、悩んでいました。そして哲学書の中にその答えがあるのではないかと思っていました。

これについて著者の結論は、どこかに「本当の私」「求めるのではなく、「どんなことに私は喜びを覚えるか」を自分に問い、そこから生き方を見つけていくしか答えはないと示唆してくへたのは、ニーチェ

 


カントにとって「自由に生きる」とは、人のいいなりにならず主体的に考える姿勢であり、そして主体的な判断に従って道徳的に行為することなのです。

 


カントの認識論において、外から見た人間の行動は、空間・時間の中で生じたことですから現象界に属します。しかし、人間の心(魂)は、私たちが認識し得ない「物自体」の世界、叡智界にも属しているとされます。つまり、認識の対象(客体)としての人間は現象界に属し、その行動は自然法則で説明されるものの、実践の主体としての人間は叡智界に属しているので、その行動は自然法則を超えた「自由な原因性」でありえる、というわけです。

 


カントは道徳的に生きる人は幸福を得る資格がある、ということです。ここで重要なのは、幸福になるための手段として、道徳的な生き方があるわけではないということです。道徳的に生きた結果として「幸福に値する」ことになるとカントは考えます。

 


カントの道徳思想は、社会のなかでの成功や富や評判にまどわされない、人としての最高の生き方を示すことであり、そして、新たな自由な生き方への呼びかけでもありました。