それでも人生にイエスと言う
それでも人生にイエスと言う
強制収容所の体験の中でも、その人がどんな人間であるかが問題であり続けた
実在とは、決断に他ならない
自分の存在を通して働きかけることができる人間が模範となる
感情は根拠にならない、したがって、疲労を感じただけではまだまだ、人生の途中で立ち止まる理由にはならない。
(俺が作った三段論法)
生きることは義務である
義務は喜びである
生きることは喜びである
幸せは目標ではなく、結果にすぎない
幸せの扉は「外に向かって」開くのです。つまり、幸せを追い求める人、幸せの扉を無理やり押そうとする人は、まさにそれを閉ざされている。
「私は人生にまだ何を期待できるか」❌
「人生は私に何を期待しているか」○
インサイド・アウトの考え方
私たちが生きる意味があるかと問うのは間違っている。私たちは、生きる意味を問うてはならない、なぜなら人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからだ。私たちは問われている存在なのだ。
どのような未来も怖くない。現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからだ。
それが可能なら運命を変える、それが不可能なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです。
自殺する人も、人生のルールに違反しています。人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです
苦難と死こそが人生を意味のあるものにする。
生きることは、困難になればなるほど、意味のあるものになる可能性があるということは明らかだ。
「人生それ自体がなにかであるのではなく、人生はなにかをする機会である」
強制収容所では、人間にふさわしく意味のある苦悩が課されている状態をどれほど切望していたか
内面的に成功するかどうかこそが問題なのです。
人間の苦悩は比較できない。苦悩の大きさは、苦悩しているもの、その人次第で決まるものだから。
人間にとって、ほんのわずかであっても幸せになれるという可能性は、幸せではないという絶対的な確実性以上のものなのです