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ニーチェ入門

ニーチェ入門

 


僧侶的評価様式は、高位で強力なものからではなく、卑俗で弱い人間たちから出てくる。

 


ニーチェによれば、この僧侶的価値評価の本性は「反動的」である。なぜならこの評価は、まず「敵(強い者)は悪い」という否定的評価をはじめに置き、つぎにその反動として「だからわれわれ(弱い者)は善い」という肯定の評価を作るからだ。つまりそれは、弱者の「ルサンチマン」(恨み、嫉妬、反感)から出てくるのである。

 


これまでは、「何のために生きるか(苦しむか)」という問いに対して「一つの意味」を与え続けてきた。「神のために」、あるいは「あの世の生のために」という意味を。

 


ルサンチマンを持たない人間は、現実の矛盾をいったん認めた上で、自分の力において可能な目標を立て、あくまで現実を動かすことを意訳する。しかしルサンチマンを抱いた人間は、現実の矛盾を直視したくないために、願望と不満の中で現実を呪詛しこれを心の内で否認することに情熱を燃やす。こうして彼は、動かしがたい現実を前にして「敵は悪い」という価値評価を作り、さらにまた「汝の敵を愛せよ」という反転した道徳を生み出す。そしてそれはやがて、どこかに「本当の世界」があるはずだという「信仰」に至りつくことになる。

 


「事実なるものはない、ただ解釈だけがある」という有名な言葉がある。これは、「客観」とか「物自体」とか「世界そのもの」とかいったものは全く存在しない、ということである。存在するのは、さまざまな人間が世界に対してさまざまな評価を行うというそのことだけである。

 


ニーチェの出発点となったのは「苦悩にも関わらず、生を是認する」という観念である。

 


ニーチェは、「苦悩」そのものではなく「苦悩の意味」が問題だったのだと書いた。人間は、なぜ自分たちはこれほど苦しみつつ生きるのかとつねに問い続けるような存在である。いったいわれわれは「何のために」生きているのかと。ニーチェによればその答えは三つの「カテゴリー」を持っていた。

まず第一に「目的」、つまり「世界には確固とした目的があるはずだ」。第二に「統一」、「世界には摂理とその全体がある、つまりそれは何者かによって統一されているにちがいない」。そして最後に「真理」、すなわち「この世は仮像にすぎない。」

そしてこのいわば「真理へのあくなき誠実」が、ついには、世界はその彼岸ひ何ものも持っていないという事実の発見にまでいきつくことになるのである。

こうして「ニヒリズムの最後の形式」が現れる。「いっさいは何の意味もない」。

 


「苦悩」→「ルサンチマン」→「三つの推論(目的・統一・真理)」→「ニヒリズム

 


精神の三つの変化

ラクダ」→「獅子」→「赤ん坊」

 


ニーチェは超人について「人間は動物と超人とのあいだにかけ渡された一本の綱である、一つの深淵の上にかかる一本の綱である。」

 


つまり、「弱者」にとって本当に重要なのは、自分より「よい境遇」にある人間に対して羨みや妬みを抱くことではなく、より「高い」人間の生き方をモデルとして、それに憧れつつ生きるという課題である。また「強者」にとって重要なのは、他人の上にあるということで奢ったり誇ったりする代わりに、自分より弱い人間を励ましつつ、つねに「もっと高い、もっと人間的なもの」に近づくように生きるという課題なのである。

 


「なぜ自分はこれほど苦しまなくてはいけないのか」、あるいは「なぜ自分だけこれほどみすぼらしい生しか持てないか」。そういう思いは容易に生と世界それ自体に対する呪詛となる。

だからこそ、まずは世界のあるがままを「是認」することを通してむしろそれを「肯定」するところにまで徹底すること。「是認」から「肯定」へと進む道としての「永遠回帰」。

 


自分の力を尽くした上で、その結果現れた生の現在にいかなる態度を取れるかが問題なのだ。というのも、そもそも自分の力を尽くしていたのでなければ「わたしはかく欲した」は決して現れないからである。

 


人間は誰も自分の不幸や不遇の状態を変えようとして力を尽くす。しかしその結果いつも必ず自分の貧しい条件を変えうるとは限らない。また不幸や不遇の意識は日常の生から泥沼のあぶくのように常に湧き上がってくるものであり、人は不断に苦悩をルサンチマンの回路へと向けるべく誘導される。

 


「何のために私たちが生きているのか、何のために苦しんでいるのか」。ニーチェは答える。この問いに答えるものはもはや誰もいない、この問いの答えは存在しない。世界と歴史の時間にはどんな「意味」も存在しないと。そして、それにもかかわらず君は生きねばならず、したがって「なんのために」ではなく「いかに」生きるかを自分自身で選ばなくてはならない、と。