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「幸福論」 アラン

アラン 「幸福論」

 


微笑みはあくびと同じように、からだの奥まで行き渡るからだ。のど、肺、心臓と次々にときほぐす。医者の薬箱のなかにもこれほど迅速に程よく効くものはないだろう。

 


そこでまず第一に、できる限り自分に満足する必要がある。第二に、自分の体を対象としたこの種の気遣いをやめねばならない。

 


気分に逆らうのは判断力のなすべき仕事ではない。判断力ではどうにもならない。そうではなく、姿勢を変えて、適当な運動でも与えてみることが必要なのだ。なぜなら、われわれの中で、運動を伝える筋肉だけがわれわれの自由になる唯一の部分であるから。

 


最大の苦痛とはものごとを正しく考えることができないことではないかと思った。

 


恐怖を癒してくれるものは、この世には現実の危険以外にないからである。

 


恐怖のなかには意味のない動揺のほかには何も存在しないと思う

 


われわれが情念から解放されるのは思考の働きによってではない。むしろからだの運動がわれわれを解放するのだ。

 


「うまく行ったから嬉しいのではなく、自分が嬉しいからうまく行ったのだ」といつも考えねばならない。どうしてもよろこびが欲しいというならば、まずよろこびを蓄えておきたまえ。いただくまえに感謝したまえ。なぜなら、希望から求める理由が生まれ、吉兆から事が成就するのだから。だから、すべてのことがいい予感であり、吉兆である。「君がそれを欲するならば、カラスが君に告げているのはしあわせなのだ」

 


本当の希望はいっさいをリアルなよろこびとするということだ。

 


誰も選択はしなかった。みんな、まず行動したのだ。こうして、職業は天性と環境の結果である。だから、あれこれと考え込んでいる人は決して決めることができない。理由や動機を穿鑿する学校の分析ほど滑稽なものは何もない。誰も選んではいない。みんな歩き出しているりどんな道もいい道なのだ。

 


悪い運命などないから。どんな運命もそれを良いものにしようと欲するならば、良い運命となるのだ。自分自身の性質についてとやかくいうことほど自分の弱さを明かしているものは何もない。

 


「ああ、どうしておれは学んでおかなかったのか」。これは怠け者の言い訳である。それなら学ぶがいい。学んだと言ってもらもう今辞めてしまったならば、それは大したことではないと思う。過去を当てにするのは、過去を嘆くのとまったく同じように愚かなことなのだ。

 


最初の舵の動かし方で一航海の全てが決まるといったら、船乗りはきっと笑うだろう。ところが、子供たちに信じ込ませようとしているのはそれなのだ。

 


弱者の言い訳が弱者を作るのだから。

 


われわれは、原因がちがえば結果も違うことを知っている。

 


「音楽が好きになりたいな」と愚か者は言う。しかし、音楽をやってみなければだめだ。それがどこにあるのではない。

 


望んでいる者はなんでも、人を待っている山のようなもので、取り逃すこともない。しかし、よじ登らねばならない。

 


われわれの社会は、求めようとしない者には何一つ与えない。辛抱強く、途中で放棄しないで求めようとしない者には、と僕は言いたい。

 


要するに、豊かになりたいと欲すれば、だれでもそうなれるのだ。そういっても、金持ちになりたいと夢みてそれができない人たちは承知しない。彼らは山を眺めた。でも山の方は彼らを待っているのだ。

 


賢者たちは、見かけの立派な袋をいくつもいくつも用心深く裏返してみるだろう。精神の均衡を失わないように、そして輝かしい運命の中で、さんざん骨を折って獲得し保持しているわずかばかりの正しい判断力を危険に晒すことがないように、絶えず気遣うのである。こういう人間は、誰も欲しないような地味な運命を背負っていくだろう。

 


人間は自分からやりたいのだ、外からの力でされるのは欲しない。自分から進んであんなに刻苦する人たちも、強いられた仕事はおそらく好まない。誰だって強いられた仕事は好きではない。しかし、自分の意思で労苦をつくり出すやいなや、僕は満足する。自分が好きでやっているこういう仕事は楽しみであり、もっと正確に言えば、幸福である。

 


人は、棚からぼた餅のように落ちてきた幸福はあまり好まない。自分で作った幸福が欲しいのだ。

 


欺かれ方には2種類ある。もらいものの楽しみは約束通りのものなど決して与えてくれない。反対に、行動する楽しみの方は、いつも予想以上の楽しみを与えてくれる。

 


行動が楽しみを追い求めるものだと思うのは間違いである。なぜなら、楽しみというのは行動にともなって生まれるものだから。

 


エゴイストは間違った判断によって、自分の運命を捉え損なっている。彼はすばらしい快楽が得られると思わない限り、指一本動かそうとはしない。このような計算の中では、本当の楽しみはいつも忘れられている。なぜなら、本当の楽しみとは、まず第一に労苦であるから。

 


幸福というのはおそらくいつも、ある種の不安、ある種の情念、すなわちわれわれを自分自身に対して目覚めさせるような苦痛の切先を前提にしている。

 


普通は現実の富よりも想像力によってより大きな幸福が得られるものである。なぜかというと、現実の富が得られると、人はそれですべてが終わったと思い込み、その場に座り込んで、もう求めることをしなくなるからである。富には2種類ある。手に入れると座り込んでしまうような富はわれわれを退屈にさせる。われわれの好む富というのは、更にその次の計画や仕事を求める富である。

 


幸福はいつもわれわれの手から逃げていくと言われている。人からもらう幸福については、それは正しい。人からもらう幸福などは、まったく存在しないからだ。しかし、自分でつくる幸福というのは決して騙されない。それは学ぶことだから、そして人はいつも学んでいる。知ることが多くなればなるほど、学ぶこともますます多くなるのだ。

 


働くことは最も楽しいものであり、働くことはまた、最も辛いものである。自由に働くのはもっとも楽しいが、奴隷のように働くのは最も辛い。

 


心の揺れはつねに現在のもので、計画はつねに未来のものである。だから、怠惰なものは「いつかやるだろう」と言うのだ。ほんとうは「今やっているところだ」と言うべきだろう。なぜなら、行動はいつも未来の意味を多く含んでいるから。

 


信じることが第一の徳であって、期待することは第二の徳にすぎないのだ。なぜなら、何一つ期待することなく始めなければならないからだ。

 


幸福は自分の影のようにわれわれが追い求めても逃げていくと人は言う。しかしたしかに、想像された幸福は決して手に入れることができない。でも、つくり出す幸福というのは、想像されないもの、想像できないものなのだ。それは実質的なものでしかありえない。

 


絵描よ、モデルの微笑に気をよくして時を浪費することなかれ。

 


「われわれが耐えねばならないのは現在だけである。過去も未来もわれわれを押しつぶすことはできない。なぜなら、過去はもう存在しないし、未来はまだ存在しないのだから。」過去と未来が存在するのは、ただわれわれがそれらを考えている時だけである。過去も未来も人間の臆見であって、事実ではない。われわれは自分で自分をさんざん苦しめておいて、悔恨や不安をこしらえているのだ。

 


現在のことを考えよ、と。今一刻また一刻と継続している君の生を考えよ、と。この1分の後には必ず次の1分がやってくる。したがって、君が現に生きているのだから、今生きているように生きていくことは可能なのだ。未来のことが怖いだって?君は自分の知らないことを語っているのだ。出来事というのは、われわれの期待通りには絶対行かないものだ。

 


われわれは誰も、自分が自分らしくない狂気にとらわれていたことを知っているから。一年も経てばそのことを心から笑い飛ばすであろう。そこから僕が結論するのは、涙やすすり泣きの衝動や胃や心臓やおなかやはげしい身ぶりや筋肉の不必要な収縮が推論に入ってくるやいなや、われわれは情念によって騙されてしまうことだ。

でも僕は、このまやかしの光がやがて消え去ることを知っている。僕にはそれができる。大げさに言わなければいいのだ。僕は自分の声が自分の中でどんな力を持っているかよく知っている。だからぼくは自分自身に対して悲劇役者のようにではなく、全く穏やかに話したいのだ。調子についてではある。

 


不平不満が怒りをはぐくむことになるからだ。地獄のなかのぐるぐる回りだ。だが、悪魔であるのは自分自身であり、フォークを持っているのも私なのだ。

 


この一年のために、皆さんの上にお祈りすることは、それは何もかもますます悪くなっていくと考えないこと、また言わないことである。言葉はそれ自体において途方もない力を持っている。悲しみをあおるやら、増大させるやらして、まるでジャケットを拡げたように何もかも悲しみで包み込んでしまうのである。そういうわけで、結果だったものが原因となる。

 


よろこびは権威的ではない、若いがゆえに。一方、悲しみは王座にあって、いつも過度にあがめられている。そこから、言わねばならない。悲しみに抵抗しなければならない、と。

 


想像力があかししているものについてはつねに疑い、よく考えて、そこで情念の巧妙な説得力を見抜いて、それを簡単に信じ込まないようにしなければならない。そうすることによって、突然、深刻な悩みは消え去るだろう。なぜなら、ちょっとした頭痛や目の疲れは辛抱できるもので、長続きしないから。しかし、絶望はおそろしいものだ。ひとりでにその原因をひどくするから。

 


「こんなに興奮していては、よくわからない。正しい判断がもてない。おれは自分に聴かせる台詞を朗読している悲劇俳優にすぎないのだ。」と言うがいい。そうすれば、見物人がいないから、芝居小屋はあかりを消すだろう。これが本当の知恵である。不正が生み出す詩情に対して自分を守る本当の武器である。

 


道はすべて通り過ぎた道だ。人はまさしくいる所にいるのだ。時間という路上では、後戻りすることも、同じ道を2度いくこともできないのだ。だから、強靭な精神を持つ人間は、自分が今どこにいるのか、何が起きてしまったのか、まさに何が取り返しのつかないことなのかを自分で考えて、そこから未来に出発する人だと考える。

 


生きるのに困難になればなるほど、人間はよく苦労に耐え、より多くの楽しみを味わうとさえ言ってもいいだろう。なぜなら、単にありあるというだけの不幸まで考えている暇がないからである。

 


ところが、幸福や不幸をつくる意見の色合いというものになると、他人のことでも自分のことでも、何一つ予想することはできない。すべては思考の流れ次第だ。

 


どんなことでも文句を言うことができるし、完全なものなど何一つ存在しないから、そういう言い分にはきりがないこと、そして悲しみはさらに悲しみを生み出すこと。なぜなら、そうやって運命を嘆くことによって、君は自分の不幸を大きくして、一切の笑う望みを、あらかじめ自分から奪い去って、そのため自分自身の胃も更に一層悪くなるから。

 


ものごとは何でも、始めにどんな態度を取るかによって決まってしまうことが多いからだ。ある古人がこう書いている。どんな出来事にも二つの把手があって、さわると手が傷つくような把手を選ぶのは賢明な選択ではないと。

 


したがって、問題は自分のために弁護してやることであって、自分をなじることではない。われわれはみんな、立派な弁護人であり、ゆたかな説得力を持っているのだ。この道を選ぶならば、満足する理由をきっと見出すであろう。

 


だから、人間もまた雨と同じように考えるがいい。そんなこと容易でない、と君は言う。やさしいことだ。雨よりもずっとやさしい。なぜなら、君がほほ笑んだところで、雨にはなんのはたらきもないが、人間には大いに力があるから。ただほほ笑むマネをしただけでも、すでに人間の悲しみや退屈さはやわらいでいるのだ。

 


「間違った臆断を取り除きたまえ。そうすれば、君の不幸はなおる。」

 


幸せになる秘訣の一つは、自分の気分に無関心になるということだ。そのように軽蔑された気分は、犬が犬小屋に戻っていくように、動物的な生に戻る。つまり自分の過ち、自分の悔怨から、すなわち自己を責めるいっさいのみじめな反省からほんとうの自分を切り離すことである。

 


人間には自分自身以外に敵はほとんどいないものである。最大の敵はつねに自分自身である。判断を誤ったり、むだな心配をしたり、絶望したり、意気消沈するような言葉を自分に言い聞かせたりすることによって、最大の敵となるのだ。ある人間に、「あなたの運命はあなた次第だ」と言うだけでも十分である。

 


人生にはこうした生き生きした、しかし一銭もかからない楽しみがいっぱいある。でも、人はそれを十分に楽しんでいない。「目を見開いてごらん。楽しみを味わいなさい」

 


もし君の方からほほ笑まないとしたら、君は本当のばか者となる。

 


人からいろいろ悪く言われないような人間、悪く思われないような人間など存在しない。人からいろいろよく言われないような人間、よく思われない人間などもいないのだ。人間の惰性というものは、人によろこばれないことなど何とも思わないようにできている。なぜなら、いらだつと変に意気揚々となるが、その気持ちが気おくれのすぐ後からついてくる。だから、嫌われていると思うと、それがじきに物事をいっそう悪くする。しかし、君はこういうことがよくわかったのだから、そういう戯れごとに落ち込まないようにすべきである。

 


誰かがぼくのことをロシア語で罵っていても、僕は構わない。でも、たまたまロシア語を知っていたらどうなる?実際のところ、ののしりの言葉はすべて、訳の分からない言葉である。そのことをよく理解するとは、悪口には理解すべきどんな意味もないと理解することだ。

 


相手にのろいの言葉を浴びせてしまうようなくだらぬ事柄に出会った時、上機嫌に振る舞うことなんだ。これをやると、そういう小さな悩みが逆に大いに役立つのだ。ちょうど坂道を登るおかげで足腰が強くなるのと同じように

 


幸せだから笑っているのではない。むしろぼくは、笑うから幸せなのだと言いたい。

 


行動によって全ての関係が変わってしまう。ところが、頭の中で考えているだけでは何も変わらない。すべてのことが元のままである。どんな行動の中にも賭けの要素がある。なぜなら、思推が問題の詮索する前に、思考をやめざるを得ないからだ。

 


人が恐怖で悩むのはいつも頭が良すぎるからである。この種の病において最悪なのは、退屈さの場合も同じだが、自分はもうそこから逃れられないと思い込み、自分を貶めてしまうのである。

 


デカルトは思考において、これとまったく同じことをやっている。思考において大胆、そしていつも自分の命令によって動いている。いつも決断しているのである。

 


君が上機嫌であることをお祈りする。これこそ交換しあうべきものである。これこそみんなの心を豊かにする、まず贈る人の心を豊かにする本当の礼儀作法である。

 


礼儀作法といえるのはただ、とくに意識することなく行った行為、とくに示そうというつもりもなく何かを示した行為のことである。

 


「本当の生き方」の中に、ぼくは「楽しませるべし」という規則を入れたい。

 


礼儀作法をわきまえるというのは、すべての身ぶりを通して、すべての言葉をつくして、「いらいらしないように。われわれに与えられた人生のこの瞬間を台無しにしないように」と示すこと、言うことである。

 


心の中で期待に胸をおどらせて、病気の兆候を、死病であっても待ち構えなかった兵士などいない。あの残虐きわまる生活の中で、しまいには病気で死ぬのは実に心地よいことだと思うようになる。そういう思いは、どんな病気に対しても非常に強い抵抗力となる。

 


幸福は、人がそれを自分の手の中に入れなければ幸福ではないのだ。幸福を世界の中に、自分自身の外に求める限り、何ひとつ幸福の姿をとっているものはないだろう。要するに、幸福については、論理的に推論したり予見したりすることができないのだ。今、幸福を持っていなければならない。君が将来幸福であるように思えるとしたら、それはどういうことかよく考えて見たまえ。それは今、君はすでに幸福を持っているからだ。期待を抱くこと、それはつまり幸福であるということなのだ。

 


最初のさまざまな困難を乗り越えた者でなければ楽しむことはできない。しかし、困難を、さらなる困難を乗り越えると、これがおそらく幸福に至る正道である。そして行動が共有される時、そこで初めて幸福は生き生きと輝くのである。

 


ボクシングの好きなボクサー、狩猟の好きなハンターもそうだ。自由な行動だから幸福なのである。自分で規則をつくりそれに従っているから幸福なのである。一言でいえば、サッカーであれ学問研究であれ、規律を容認しそれに従うから幸福なのだ。そしてそういう義務は遠くから見る限り、面白くない。それどころか不愉快なものだ。幸福とは、報酬など全然求めていなかった者のところに突然やってくる報酬である。

 


遺産を相続する幸福、あるいは宝くじが当たる幸福など。また名誉もそうだ、名誉は偶然のものにすぎない。しかし、われわれ自身の力から生じる幸福は、反対に、われわれの存在に染み込んでいる。そのような幸福はわれわれの存在に染み込んでいる。古代の賢人は難船から救われて素っ裸で陸に上がると「おれは全財産を身につけているのだ」と言った。

 


何も持たない者は何ももらうことができないと断じられている。自分一人で力を発揮し幸福になる者は、したがって、他の人たちによってさらに幸福となり力を発揮するであろう。

 


幸福になりたいと思って、そのための努力をしなければならない。どっちにころんでもいいという見物人の態度を決めこんで、ただドアを開いて幸福が入るようにしているだけではら入ってくるのは悲しみである。放任された単なる気分は、悲しみや苛立ちにすぐ変わる。これこそがペシミズムの本領発揮だ。

 


まあまあ何とかやっていけて、人生の苦しみといったところで、精々、ちょっとした退屈さや、ちょっとした厄介さだけのときに幸福になる方法である。そのための第一の規則は、自分の不幸は、現在のものも過去のものも、絶対他人に言わないことである。

 


天気が悪いことに対して、不平不満を言ったところで何一つなくなりはしないのだ。それで、である。とりわけ雨の降る時こそ、晴れ渡った顔つきをしたいものだ。

 


不幸になるのは、また不満を抱くのは易しいことだ。ただじっと座っていればいいのだ、人が楽しませてくれるのを待っている王子のように。

 


幸福になるのは、いつだって難しいことなのだ。多くの出来事を乗り越えねばならない。大勢の敵と戦わなければならない。負けることだってある。乗り越えることのできない出来事や、ストア派の弟子などの手に負えない不幸が絶対ある。しかし力いっぱい戦った後でなければ負けたというな。これはおそらく至上命令である。幸福になろうと欲しなければ、絶対幸福になれない。これは、何にもまして明白なことだと、僕は思う。したがって、自分の幸福を欲しなければならない。自分の幸福を作り出さなければならない。

 


悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。

 


幸福とはすべて、意志と自己克服とによるものである。

 


楽観主義は誓約をもとめていることである。最初はどんなにおかしな考えに見えようとも、幸福になることを誓わなければならない。

 


最後に用心のために言っておく。憂鬱な思考はすべて、自分をだます魂胆だと思ってさしつかえない。そう考えて良いのだ。なぜなら、われわれは何もしないでいると、すぐに自ずと不幸を作り出してしまうものだから。