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夜と霧

夜と霧

人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない。

 


つまり人間は、ひとりひとり、このような状況になってもなお、収容所に入れられてた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。

典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

 


最後の瞬間まで誰も奪うことができない人間の精神的自由は、彼が最後の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。

 


そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようががんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。

 


人間の内面は外的な運命よりも強靭なのだということを証明している。

 


来る日も来る日も、そして時々刻々、思考の全て挙げてこんな問い(今から行く現場では、人をいたぶることをなんとも思わない監督のもとで殴られるのか、今日の「おまけ」はソーセージだろうか?など)にさいなまれねばならないというむごたらしい重圧に、反吐が出そうになっていた。

そこで作者はトリックを使った。作者は大ホールの演台に立っていた。そこのテーマは強制収容所の心理学。今わたしをこれほど苦しめてうちひしいでいる全ては客観化され、学問という一段高いところから観察さている状況を考えていた。

 


「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」

 


しかし未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、精神的にも身体的にも破綻していった。

 


強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的をもたせなければならなかった。

 


「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える」

 


生きる意味を問う

私たちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちからなにかを期待しているかが問題なのだ。

生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

 


生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。ここにいう生きることはけっして漠然としたなにかではなく、常に具体的な何かであって、したがって生きることが私たちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会を与え、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だか、全ての状況はたったの一度、ふたつとないしかたで現象するものであり、そのたびに問いに対するひとつ、ふたつとない「答え」だけを受け入れる。

 


具体的な運命が人間を苦しめるのなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命ともに、ふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。

 


誰もその人の苦しみを取り除くことはできない。誰もその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを、ひきうけるとこに、何かを成し遂げるたった一度の可能性があるのだ。

 


被収容者にとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない、苦しむこと死ぬことの意味にも裏付けされた、総体的な生きることの意味だった。

 


自殺しようとしていた者は「生きていることになにも期待できない」と言っていた。しかしこの2人には、生きることは彼らから何かを期待している、生きていれば、未来に彼らを待っている何かがあると伝えることに成功した。

このひとりひとりの人間に備わっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生き続けるということにたいして担っている責任の重さをまざまざと気づかせる。

自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えれるのだ。

 


未来のことは誰にもわからないし、つぎの瞬間自分に何が起こるかさえわからないからだ

 


「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」

私たちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験の中で実現し、心の宝ものとしていることは、誰にも奪えないのだ。

 


誇りを持って苦しみ、死ぬことに目覚めてほしい