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君主論

君主論

 


人間というものはつねに他の人びとが通った道を歩むものであり、彼ら先人の行為を模範しながら進むものだが、先人の道は完全に辿ることができないし、あなたが真似しようとする人物たちの力量まで達することもないので、賢明な人ならばつねに偉大な人物たちが通った道から入って、甚だしく抜きん出たそれらの人々の真似に徹するべきである。

 


「君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばならない。なぜならば、恐れられることと憎まれないことは、充分に両立し得るから。」

 


人間は本性においては、施された恩恵と同様に、施した恩恵によっても、義務を感じるものなのである。

 


精神の訓練に関しては、君主は歴史書を読まねばならない。そしてその内に卓越した人物たちの行動を熟慮し、戦争のなかでどのような方策を採ったか見抜き、彼らの勝因と敗因を精査して、後者を回避し前者を模範できるように努めねばならない。

 


卓越した自分たちといえども、自分よりも以前に、賞賛され栄光を勝ち得た者がいれば、その人物たちといえども、自分よりも以前に、賞賛され栄光を勝ち得た者がいれば、その人物の偉業を常に座右の銘として模範に努めたのであるから、それと同じようにしなければならない。

 


いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、自らの存続よりも、むしろ破滅を学んでいる。

 


君主たる者は、おのれの臣民の結束と忠誠心とを保たせるためならば、冷酷という悪評など意に介してはならない。なぜならば、殺戮と略奪の温床たる無秩序を、過度の慈悲ゆえに、むざむざ放置する者たちよりも、一握りの見せしめの処罰を下すだけで、彼の方がはるかに慈悲深い存在になるのだから。

 


人間というのは、恐ろしい相手よりも、慕わしい相手のほうが、危害を加えやすいのだ。

 


人びとが慕うのは自分達の意に叶う限りであり、恐れるのは君主の意に叶う限りであるから、賢明な君主は自己に属するものに拠って立ち、他者に属するものに拠って立ってはならない。しかし、憎しみだけは逃れるように努めねばならない。

 


君主たる者は、従って、さきに記した五つの資質(慈悲深く、信義を守り、人間的で、誠実で、信心深く)が身に備わっていないことを暴露してしまう言葉は、決して口から出さぬように、充分に気をつけねばらならない。

 


軽蔑を招くのは、一貫しない態度で、女々しく、意気地なしで、優柔不断な態度である。これを君主は、暗礁のごとくに、警戒しなければならない。そして自分の行動が偉大なものであり、勇気に溢れ、重厚で、断固たるものであると認められるように努めねばならない。

 


新しい君主が、偉大な存在になろうと望む時には、何よりも運命が敵をつぎつぎと生ぜしめ、彼に向かって攻撃を仕掛け、乗り越えるべき機会を彼につかませながら、外敵が差し出す梯子を伝って、さらなる高みへと彼を昇らせようとする。

 


一方に味方し他方に敵対する態度を明確に示すとき、その場合にも君主は尊敬される。このような態度は、中立を守ることなどよりも、はるかに有用である。

 


物事の成り行きの常として、一つの不都合を避けようとすれば、もう一つの不都合に巡り合うのは当然であるから。だが、慎重な心構えとは、数々の不都合の性質をよく見分けて、最悪でないものを良作として選び取ることにある。

 


頭脳には3種類ある。第一は自分の力で理解し、第二は他人の理解を聞き分け、第三は自分の力でも他人の力でも理解しない場合だが、第一は格段に秀れ、第二も秀れているが、第三は無能である。

 


君主たる者は、それゆえ、つねに助言を求めなければならない。が、それは、自分が望むときであって、他人が望むときではない。

 


良き助言というものは、誰から発せられても、必ず君主の思慮のうちに生まれるものであり、良き助言から君主の思慮が生まれるのではない。

 


人間たちの共通の欠陥であり、凪の間にしけのことを考えようとしないので、後になって逆境に見舞われるや、さっさと逃げ出して、そのうち自分たちを呼び戻してくれるのを、期待していたのだから。そのような決断は、他に方法がなければ、まだしも許せるが、それに頼って他の治療法を投げ出してしまったのでは、いかにも悪い。

あなたを助け起してくれる人がいると見込んで、倒れるような真似は、誰もするはずがないから。そのような事態は起こらないし、仮に起こったとしても、あなたに安全をもたらさない。そうして成った防衛は、卑しい真似の結果であって、あなた自身の力で拠ったものではないから。永続的な防衛は、あなた自身の力に拠って支えられ、あなたの力量に依存したもの、それだけである。

 


しかし、私たちの自由意志が消滅してしまわないように、私たちの諸行為の半ばまでを運命の女神が勝手に支配しているのは真実だとしても、残る半ばの支配は、あるいはほぼそれくらいまでの支配は、彼女が私たちに任せているのも事実である、と私は判断しておく。

 


運命がその威力を発揮するのは、人間の力量がそれに逆らってあらかじめ策を講じておかなかった場所においてであり、そこをめがけて、すなわち土手や堤防の築かれていない箇所であることを承知の上で、その場所へ、激しく襲いかかってくる。

 


君主が、全面的に運命にもたれかかっていたので、それが変転するや、たちまちに滅びてしまったのである。私の考えでは、次いで、その君主が幸運に恵まれたのは、彼の行動様式が時代の特質に合っていたためであり、同様にして不運で合ったのは、彼の行動が時代と合わなかったためである。なぜならば、人間というものは、各人が行く手に抱く目標へ、すなわち栄光と富貴へ、おのれを導いてゆく事態のなかで、さまざまに行動することが知られているから。

 


慎重な態度をとった二人のうち、一方は目標へ到達したのに、他方がそうでなかったり、同様にまた一方が慎重であり、 他方が果敢であるというように、異なった行動様式をとりながら、二人が同じように幸運な結果へ達することもあるから、すなわちこれは、時代の特質が彼らの行動と合っていたのか、あるいはいなかったのか、それ以外の何ものからも生じなかったのである。この点から、先に私の述べたことが、すなわち二人が異なった活動をしながら、一方が目標へ到達したのに他方がそうでなかったという事態が、生ずるのである。

 


だがらもしも時代と状況に合わせて自分の性質が変わっていれば、自分の運命はわからないであろう。

 


運命は時代を変転させるのに、人間たちは自分の態度にこだわり続けるから、双方が合致しているあいだは幸運に恵まれるが、合致しなくなるや、不運になってしまう。私としてはけれどもこう判断しておく。すなわち、慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。なぜならば、運命は女だから、そして彼女を組み伏せようとするならば、彼女を叩いてでも自分のものにする必要があるから。そして周知のごとく、冷静に行動する者たちよりも、むしろこういう者たちのほうに、彼女は身を任せるから。それゆえ運命はつねに、女に似て、若者たちの友である。なぜならば、彼らに慎重さは欠けるが、それだけ乱暴であるから。そして大胆であればあるほど、彼女を支配できるから。

 

 

 

もしあなた方が、先に挙げた人たちの、行動や生き方を目標に掲げるならば。そしてあの人たちが、たとえ類稀な驚嘆すべき者たちであったにせよ、だがしかし、彼らとて同じ人間であったのであり、彼らの誰もが現在ほどの好機に恵まれてはいなかった。

 


あらゆる物事があなた方の偉大さのうちに集まってきた。あとは、あなた方がみずから実行しなければならない。神が何から何まで手を下そうとされないのは、わたしたちから自由意志を、また私たちに属する栄光の部分を、奪わないためである。