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自己信頼

自己信頼

 


汝、自らの他に求ることなかれ

 


自分の考えを信じること、自分にとっての真実は、すべての人にとっての真実だと信じることーそれが天才である。

 


心の中で確信していることがあるなら、声に出して語るがよい。そうすれば、それは普遍的な意味を持つようになるだろう。

 


たとえ周囲のすべてが反対していようとも、にこやかに、しかし断固として、自分の中に湧きあがってくる印象に従うべきだ。

 


ねたみは無知であり、人まねは自殺行為であること、良かれ悪しかれ、自己は受け入れなければならないこと、世界は広く、善きものであふれているが、自分に与えられた土地を耕さないかぎり、身を養ってくれる一粒のトウモロコシでさえ、自分のものにならないこと。

 


私たちの中に宿る力は、まったく新しい種類のものであり、それを使って何ができるかを知っているのは本人だけだが、実際にやってみるまでは本人にさえ、それが何かはわからない。

 


臆病者に神のみわざは伝えられない

 


神の摂理があなたのために用意した場所を、同時代の人々との交わりを、ものごとの縁を受け入れよ。

 


株式会社では、自己信頼は嫌悪される。社会はものごとの本質や創造性ではなく、名目と習慣を愛する。

 


「自分の中から湧きあがってくるものだけを人生の指針としたいのです。もし私が悪魔の子なら、悪魔に従って生きていくまでです。」

 


私にとって、自分の本性に関わる法則以外に神聖な法則はない。

 


正しいものは私の性質に即したものだけであり、悪いものは私の性質に反したものだけである。

 


自分以外のものは名ばかりで、束の間の命しか持たないものと見なし、たとえ周囲のすべてが反対しようとも、自分の意見を貫くことだ。

 


人生は生きるためにあるのであって、見せ物にするためではない。きらびやかだが不安定な人生より、つつましくとも誠実で平穏な人生の方がずっと好ましい。

 


私の才能はわずかで平凡かもしれないが、私はたしかに私として存在しており、わざわざ二次的な証拠を持ち出して、そのことを自分や仲間に納得させる必要はない。

 


私がしなければならないのは、私にかかわることだけであって、他人が考えていることではない。

この基準を守るのは、実生活でも知的生活でも同じように困難だが、重要なものと些末なものを見分けるには最高の指標だ。

 


やっかいなことに、世界には他人の本分を本人よりも知っていると思い込んでいる人々がいる。

 


常に現在の視点から過去を徹底的に検証し、日々新しい1日を生きること、それこそが賢明な態度だと思われる。

 


一貫性と偉大な魂の間にはなんの関係もない。一貫性を気にするのは、壁に映った自分の影を気にするようなものだ。

 


今考えていることを断固として語りたまえ。そして明日は、たとえ今日言ったことの全てと矛盾していても、そのときに考えていることを断固として語るのだ。

 


偉大であることは、誤解されることなのだ。

 


人は、その人自身でしかありえない。その人を語るのは、意志よりも人格だ。

 


世間に迎合していては、どんな行動も説明できない。自分の道を行くのだ。そうすれば過去の行為が、いまの自分を正当化してくれる。

 


こうなりたいと思う自分にいま、なるのだ。いま行動せよ。どんなときも人目を気にしないように努めれば、常にそうできるようになる。

 


人格の力は積み重なる。過去に徳に励んだ日々が、活力にあふれたいまをつくるのだ。

 


ならば人間は自分の価値を知り、常に主体的に行動するべきではないか。世界は自分のためにあるのに

 


後天的に授けられるものを教育というのに対し、この根源的な知恵は「直観」と呼ばれる。この奥深い力、どんなに分析しても明らかにしえない究極の事実の中に、万物の起源がある。

 


私たちは果てしなく広がる叡智の膝に身をもたせている。この叡智は私たちに真実を伝え、私たちを使って世界に働きかける。

 


思慮のない人々は他人の意見を簡単に否定する。もし無意識に知覚しているものを口にすれば、それと同じくらい、いやそれ以上に否定されるだろう。彼らは知覚を意見と混同しているのだ。

 


歴史は、私の現在と未来に関する快い寓話やたとえ話にすぎず、もしそれ以上のものであるなら、見当はずれの有害なものでしかない。

 


人間は臆病で弁解ばかりしている。すっかり自信を失い、「私はこう思う」とか「私はこうだ」といい切る勇気もなく、どこかの聖人や賢人の言葉を引用している。

 


しかし人間は何かを先延ばしにしたり、過去を振り返ったりする。いまを生きずに過去を悔んだり、自分を取り巻いている豊かさに目を向けず、つま先だって未来を予見している。バラと同じように時間を超越し、いまを自然とともに生きるようにならなければ、私たちは幸福にも強くもなれないだろう。

 


価値があるのはいま生きていることであって、過去に生きたことではない。

 


ではなぜ、私たちは自己信頼の話をしているのか。それは魂が存在するかぎり、力も存在するからである。それは何かに頼るのではなく、自ら行動する力だ。

 


信頼を語っても、言葉はむなしく空まわりする。むしろ信頼を寄せている主体、実際に活動し、存在しているものについて語ろう。

 


万物の原理に私よりも従っている人は、一本の指を動かすことなく私を支配する。私は霊の引力によって、その人の周りをぐるぐると回らずにはいられない。

 


人類には私の血が流れ、私には人類の血が流れている。だからといって、彼らの短期や愚かさを取り入れるつもりはない。むしろ、恥ずかしいと思うくらいだ。

 


ありのままの私を愛してくださるなら、私たちはもっと幸せになれるでしょう。ありのままの私では愛せないというなら、ありのままで愛される人間になれるよう努力するつもりです。

 


あなた方はあなた方で、真実に忠実に生きているのかもしれない。でもその真実が私にとっての真実ではないなら、どうぞご自身の仲間を大切に。私は私の仲間を探します。利己心ではなく、謙虚で誠実な心からそうするのです。

 


人生を先延ばしにするのではなく、すでに生きているからだ。彼にはひとつではなく、百のチャンスがある。

 


自己信頼を実践すると、新しい力が姿を現す。

自分自身に従って行動するなら、即座に世間はその人をあわれむのをやめ、むしろ感謝し、尊敬の念を抱くようになる。

 


私的な目的をかなえるための祈りは下劣であり、盗みに等しい。そのような祈りは自然と意識を一元的ではなく、二元的に捉えている。

 


勇気こそ、われらのもっとも大切な神なり

 


不満をいうのは自己信頼が足りず、意志が弱いからだ。不幸を悔いれば、不幸な目にあった人を助けられるというなら、そうするがよい。そうでないなら、自分の仕事をするのだ。

 


幸運をつかむ鍵は手元の喜びにある。神にも人にも常に迎合されるのは自立した人間だ。

 


その人は、私たちの愛を求めなかったがゆえに、私たちの愛を一身に集める。私たちの非難を無視し、わが道を行くがゆえに、私たちは必死になって、まるで詫びるかのように彼の機嫌をとり、誉めたたえる。

 


世の人々は人格ではなく、所有しているものによって相手の価値をはかる。しかし教養を身につけ、自分の本質に敬意を払うようになった人は、自分が所有している財産を恥じるようになる。

 


人格は常に必然によって獲得される。

 


「汝の運命、すなわち人生の定めは自分自身を追い求めることだ。ならば運命を追い求めるのはやめ、泰然としているがよい」

 


他人には何も求めるな。そうすれば万物流転の世にあっても、あなたは唯一不動の柱として、周囲のものすべてを支えるようになるだろう。

 


「運」と呼ばれるものについても同様だ。たいていの人は運命の女神を相手に賭けをし、運命の輪がまわるにまかせて、すべてを手にいれたり、全てを失ったりする。

 


しかし運任せの暁光など道理に合わないものとして退け、神の法官たる「原因」と「結果」を相手にするべきだ。

 


あなた自身をおいて、あなたを平和をもたらすものはない。