愛するということ
愛するということ
愛は技術だろうか。もし技術だとしたら、知力と努力が必要だ。
このささやかな本は、愛は技術であるという前提に立っている。
愛は、人間のなかにある能動的な力である。人を他の人々から隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。
愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう。
生産的な性格の人にとっては、与えることは全く違った意味を持つ。彼らにとって、与えることは、自分の持てる力のもっとも高度な表現である。与えるというまさにその行為を通じて、私は自分の持てる力と豊かさを実感する。
たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。
自分の中に息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているものすべてを与えるのだ。
このように人は自分の生命を与えることで他人を豊かしに、自身を活気づけることで他人を活気づける。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、必ず他人の中に何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる。本当の意味で与えれば、必ず何かを受け取ることになる。
愛の能動的な性質
配慮・責任・尊重・知である。
愛の本質は、何かのために「働く」こと、「何かを育てる」ことにある。愛と労働は分かちがたいものである。人は、何かのために働いたらその何かを愛し、また、愛するもののために働くのである。
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。
恋愛には、もしそれが愛と呼べるものなら、前提がひとつある。すなわち、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあうということである。
「汝のごとく汝の隣人を愛せ」という考え方の裏にあるのは、自分の個性を尊重し、自分を愛し、理解することは、他人を尊重し、愛し、理解することは切り離せないという考え方である。自分を愛することと他人を愛することは、不可分の関係にあるのだ。
自分の人生・幸福・成長・自由を肯定することは、自分の愛する能力、すなわち配慮・尊重・責任・知に根ざしている。もしある人が生産的に愛せるなら、その人は自分のことも愛している。他人しか愛せない人は、愛することがまったくできないのである。
利己主義と自己愛とは、同じどころか、正反対である。利己的な人は、自分を愛しするぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、その人は自分を憎んでいるのだ。そのように自分にたいする愛情と配慮を欠いているのは、その人が生産的に欠けていることのあらわれにほかならずらそのせいで、その人は空虚感欲求不満から抜け出すことが出来ない。
現代人は過去か未来に生き、現在を生きていない。感情的に幼年時代や母親を思い出したり、将来の幸福なプラン胸に描いたりしている。他人が創作した物語にひたって身代わりの愛を経験するとか、愛を現在から過去あるいは未来に遠ざけるといった、この抽象化され疎外された愛の形が、現実の苦しさや孤独感をやわらげる麻薬の働きをしている。
現代の宗教は、自己暗示や精神療法と組んで、ビジネスの面で人間を助ける。1920年代にはまだ、「人格を向上させる」目的で神に祈ったりはしなかった。「人を動かす」などの宗教的な本では、成功ばかり目指すことが果たして一神教の精神と一致するのかということは、問題にすらなっていない。成功という至上の目的はまったく疑われず、神への信仰や祈りは、成功のための能力を高めるためのものとして推奨されている。
重要なのは、外から押し付けられた規則か何かのように規律の習練を積むのではなく、規律が自分の意志の表現となり、楽しいと感じられ、ある特定の行動に少しずつ慣れていき、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようになることだ。
人間にとって肉体的にも精神的にも良いことは、最初は多少の抵抗を克服しなければならないとしても最終的には快いものでなければならない、と考えられていた。
ひとりでいられる能力こそ、愛する能力の前提条件なのだ。
他人との関係において精神を集中させるということは、何よりもまず、相手の話を聞くということである。
集中するとは、いまここで、全身で、現在を生きることだ。何かをやっているあいだは、次にやることは考えない。
人は自分自身に対しても敏感になれる。たとえば疲れを感じたり、気分が滅入ったりした時、その気分に屈したり、つい陥りがちな後ろ向きの考えにとらわれると、鈍感さを助長することになる。そういうときは、「何が起きたのか」と自問するべきだ。どうして気分が滅入るのだろうか、と。また、なんとなくイライラしたり、腹が減ったり、白昼夢にふけるなどの逃避的な活動をしている時も、それに気づいたら、自問するのだ。
内なる声に耳を傾けることだ。なぜ私たちは不安なのか、憂鬱なのか、いらいらするのか、内なる声はその理由を、たいていすぐに教えてくれる。
客観的に考える能力、それが理性である。理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。
人を愛するためには、ある程度ナルシストから抜け出していることが必要であるから、謙虚さと客観性と理性を育てなければならない。
愛の技術の習練には、「信じる」ことの習練が必要なのだ。
他人を「信じる」ことは、その人の基本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。
私たちは自分を「信じる」。私たちは自分の中に、ひとつの自己、いわば芯のようなものがあることを確信する。どんなに境遇が変わろうとも、また意見や感情が多少変わろうとも、その芯は生涯を通じて消えることはなく、変わることもない。
この芯こそが「私」という言葉の背後にある現実であり、「私は私だ」という確信を支えているのはこの芯である。自分の中に自己がしっかりあるという確信を失うと、「私は私だ」という確信が揺らいでしまい、他人に頼ることになる。そうなると、「私は私だ」という確信が得られるかどうかは、その人にほめられるかどうかに左右されることになってしまう。
自分を「信じている」者だけが、他人に対して誠実になれる。なぜなら、自分に信念を持っている者だけが、「自分は将来も現在と同じだろう、したがって自分が予想しているとおりに感じ、行動するだろう。」という確信を持てるからだ。
信念を持つには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。
愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。
人は意識のうえでは愛されないことを恐れているが、ほんとうは無意識のなかで、愛することを恐れているのだ。人を愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。
愛は能動である。