再読したくなる切り抜きブログ

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過酷なるニーチェ

過酷なるニーチェ

 


真理に至る一般的な道はなく、各人に与えられた、しかも各人が切り開く多様な道があるだけである。これはキリケゴールの「主観性が真理である」という言葉に重なり合う。哲学的心理は、みずから真に勝ち得たものにしか価値がない。これは、哲学を「学ぶ」とはいかなることか、ということでもある。

 


人生の意味は「ある事象が100万年後に消滅してしまう」ことには依存しないということである。それが意味があるか否かは、あくまでそれが「いま」意味があるか否かに懸かっている。

 


エゴイズムは正しい、ただし、強くすぐれた者かつ誠実なものにとってのみ。

 


「すべてがすべてに関連しているのであるから、この「いま」は単なる「いま」ではなく、これまでのすべての「いま」を含んだ「いま」である。これかはの「いま」をすべて含んだ「いま」である。

 


「いつか」が「いま」となるその時は「いま」と変わりがないのだ。

 


最もレベルの高い力への意思とは、「神が死んだ」ことを正視し、それに代わって無意味なものが無限界繰り返されるという「永遠回帰」の真理を受け入れる意思なのだ。

 


永遠回帰の真理、「いま」この瞬間だけに生き、そして死ななければならないのだ。

 


あらゆる形態の受動的ニヒリズムはら「いま」この瞬間しか「ない」ことを全身で悟り、いかなる未来にもいかなる過去にも視線を迷わせないことによって、能動的ニヒリズムに転じる。これが、ニヒリズムの徹底であり、没落の極地である。

 


ニヒリズムの極限形式と「うち」なる基準しかないこととは完全に合致する。あらゆる「そと」なる基準を拒否すること、それがエゴイズムの極地であり、ニヒリズムの極地なのである。すべてはわたしの「うち」にある。