再読したくなる切り抜きブログ

読んだことのある「本」をもう一度読みたくするブログ

論語と算盤

論語と算盤

 


「己を責めて人を責めるな」

=「自分が立とうと思ったら、まず人を立たせてやる。自分が手に入れたいと思ったら、まず人に得させてやる。」

 


「及ばざるは過ぎたるより勝れり」

 


「堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え」

 


世の中のことは、「こうすれば必ずこうなるものだ」という原因と結果の関係がある。

 


人が世の中を渡っていくためには、成りいきを広く眺めつつ、気長にチャンスが来るのを待つということも、決して忘れてはならない心がけである。正しいことを捻じ曲げようとする者、信じることをふみ付けにしようとする者とは、何があってもこれと争わなければならない。

 


少々経験が足りないくらいで、威張ることはしたく無い。人は平等でなければならない。しかもその平等は、ケジメや礼儀、譲り合いがなければならない。

 


結局、世の中は持ちつ持たれつなもの。自分も驕らないようにし、相手も侮らず、お互いに信頼しあって隙間風の吹かないようにとわたしは努めている。

 


一個人においても、常に周囲に敵があってこれに苦しめられ、その敵と争って必ず勝ってみせる気概が無ければ、決して成長も進歩もしない。

 


ただ、逆境に立たされる人は、ぜひともその生じる原因を探り、それが「人の作った逆境」であるか、それとも「人にはどうしようもない逆境」であるのかを区別すべきである。

=神よ願わくば私に、変えることのできない物事を受け容れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見極める知恵とを授けたまえ。

 


このうち「人にはどうしようもない逆境」とは、立派な人間が真価を試される機会に外ならない。

では、その境遇にどう対処するべきかというと、「自己の本分(自分に与えられた社会での役割分担)」だと覚悟を決めるのが唯一の策ではないかということだ。「どんなに頭を悩ませても結局、天命であるから仕方がない」と諦めがつくならば、どんなに対処しがたい逆境にいても、心は平静さを保つことができるに違いない。

=変えることのできない物事を受け容れる落ち着き

 


「人の作った逆境」に陥ったらどうすればよいのだろう。これはほとんど自分がやった結果なので、とにかく自分を反省して悪い点を改めるしかない。世の中のことは、自分次第な面も多く、自分から「こうしたい、ああしたい」と本気で頑張れば、だいたいはその思い通りになる。

ところが多くの人は、自分で幸福な運命を招こうとしないで、かえって最初から自分でねじけた人となってしまい、逆境を招くようなことをしてしまう。

 


「蟹は、甲羅に似せて穴を掘る」

 


喜怒哀楽はバランスを取る必要があるというのだ。常に「走りすぎず、溺れすぎず」「限度と心得ている。これを一言でいえば、「何事にも誠実さを基準とする」ということに他ならない。 

 


人の災いの多くは、得意な時に兆してくる。得意な時は誰しも調子に乗ってしまう傾向があるから、災いはこの欠陥に食い入ってくるのである。ならば世の中で生きていくには、この点に注意し、得意なときだからといって気持ちを緩めず、失意の時だからといって落胆せず、いつも同じ心構えで、道理を守り続けるように心がけていくことが大切である。

 


人が調子に乗るのはよくないということだ。

「名声とは、常に困難でいきづまった日々の苦闘の中から生まれてくる。失敗とは、得意になっている時期にその原因が生まれる。」

 


極楽も地獄も気にかけない。ただ現在において正しいことを行なったならば、人として立派なものだ、と信じている。

 


豊臣秀吉のような大人物であっても、初めて信長に仕えたときは、草履取りというつまらない仕事をさせられた。

 


若いうちは、気が大きくなって、些細なことを見ると、何だこれくらいと軽蔑する癖がある。しかしそれが、その時限りで済むならまだしも、後日の大問題を引き起こしてしまわないとも限らない。

「小さなことは分別せよ。大きなことには驚くな」

 


「一生を通じて、『大きな志』からはみ出さない範囲の中で工夫する」

 


人には、年寄りだとか若いに関係なく、「これだけは譲れない」というところがぜひあって欲しいものである。そうでないと、人の一生というものが、まったく生き甲斐のないものになってしまう。

 


常識とは、何かをするときにも極端に走らず、頑固でもなく、善意を見分け、プラス面とマイナス面に敏感で、言葉や行動がすべて中庸にかなうものこそ、常識なのだ。

 


「智・情・意(知恵・愛情・意志)」の3つがそれぞれバランスを保って、均等に成長したものが完全な常識であると考える。

 


ごく一般的な人情に通じて、世間の考え方を理解し、物事をうまく処理できる能力が、常識に他ならない。

 


強い意志のうえに、聡明な知恵を持ち、これを情愛で調節する。さらに三つをバランスよく配合して、大きく成長させていってこそ、初めて完全な常識となるのである。

 


もともと習慣とは、人の普段からの振る舞いが積み重なって、身に染み付いたものだ。このため、自分の心の働きに対しても、習慣は影響を及ぼしていく。悪い習慣を持つと悪人になり、よい習慣を多く身につけると善人になるというように、最終的にはその人の人格にも関係してくる。だからこそ、誰しも普段から良い習慣を身につけるように心がけるのは、人として社会で生きていくために大切なことだろう。

 


日々悪い習慣を直したいという強い思いから、大部分はこれを直すことができたつもりである。悪いと知りながら改められないのは、自分に打ち勝とうと心が足りないということだ。

 


若い人々には大いに勉強してもらわなければならない。1日怠けてしまえば最後まで怠けてしまうもの、怠けていて好結果が生まれることは決してないのだ。

 


知識がどんなに十分あっても、これを活用しなければ何の役にも立たない。これを活用するというのは、勉強したことを実践に結びつけることだ。こちらの方も学んでいかないと、どんなにたくさんの知識があっても、全く活用できなくなる。

 


机に座って読書するだけを学問と思うのは間違っている。要するに、普段の行いが大切なのだ。

 


すべての人に、勉強を続けることを希望するのと同時に、生活のなかから学ぶ心がけを失わないよう心がけて欲しい。

 


自分さえよければいいという考え方が結局自分の利益にならないのは、この一事をみてもわかると思う。

 


「高い道徳を持った人間は、自分が立ちたいと思ったら、まず他人を立たせてやり、自分が手に入れたいと思ったら、まず人に得させてやる」

 


「一杯のご飯でも、これを作るのにいかに苦労を重ねてきたのか知らなければならない。紙切れや糸くずでも、簡単にできたわけではないことを理解せよ」

 


お金に対して、無駄に使うのは戒めなければならない。しかし同時に、ケチになることも注意しなければなならない。よく集めることを知って、よく使うことを知らないと、最後には守銭奴になってしまう。今の若い人たちは、金づかいの荒い人間にならないように努力するのと同時に、守銭奴にならないように注意すべきなのである。

 


いつもこの「趣味」を持って欲しいと思う。さらに一歩進んで、人として生まれたからには、人としての趣味を持って欲しいと思うのだ。

 


「理解することは、愛好することの深さには及ばない。愛好することは、楽しむ境地の深さには及ばない。」

 


「1日を新たな気持ちで、日々を新たな気持ちで、また1日を新たな気持ちで」

 


「天に罪を犯してしまえば、いくら祈っても無駄だ」

わたしも自分の行いがお天道様に恥じないか否かをいつも考えている。

 


本当に人を評論しようと思うならば、その富や地位、名誉のもととなった「成功が失敗か」という結果を二の次にし、よくその人が社会のために尽くそうとした精神と効果とによって、行われるべきものなのだ。

 


「人の一生は、重い荷物を背負って、遠い道のりを歩んでいくようなもの、急いではならない。

不自由なのが当たり前だと思っていれば、足りないことなどない。心に欲望が芽生えたなら、自分が苦しんでいた時を思い出すことだ。耐え忍ぶことこそ、無事に長らえるための基本、怒りは自分にとって敵だと思わなければならない。

勝つことばかり知っていて、うまく負けることを知らなければ、そのマイナス面はやがて自分の身に及ぶ。自分を責めて、他人を責めるな。足りない方が、やりすぎよりまだマシなのだ。」

 


自分を磨くというのには、広い意味がある。精神も、知恵や知識も、身体も、行いもみな向上するように鍛錬することなのだ。

 


現代の青年が、いまもだとも切実に必要しているのは、人格を磨くことだ。

 


素晴らしい人格をもとに正義を行い、正しい人生の道を歩み、その結果手にした豊かさや地位でなければ、完全な成功とはいえないのだ。

 


正しい道理を進むなら、あくまで自分の主張を通してよい。」

 


地位や豊かさは、聖人や賢人も望むものだし、貧しさや賤しさは逆に望まないものであった。これは、われわれ凡人と変わることがなかった。ただし彼らは、人としての道や社会道徳の方を根本的だとし、経済力や地位は枝葉末節だと考えていた。

 


もし社会で身を立てようと志すなら、どんな職業においても、身分など気にせず、最後まで自力を貫いて、人としての道から少しも背かないように気持ちを集中させることだ。

そのうえで、自分が豊かになって力を蓄えるための知恵を駆使していくのが、本当の人間の意義ある生活、価値ある生活といえるだろう。

 


武士道の道徳

「仁」 ものごとを健やかに育む

「義」 みんなのためを考える

「考」 親に尽くす

「弟」 目上に尽くす

「忠」 良心的である

「信」 信頼を得る

 


「子供に孝行させるのではない、親が孝行できるようにしてやるべきだ」

 


「昔の人間は、自分を向上させるために学問をした。今の人間は、名前を売るために学問をする」

 


「仕事とは、地道に努力していけば精通していくものだが、気を緩めると荒れてしまう」

 


人生の運はその10分の1や2くらいなら、初めから定まっているのかもしれない。しかし、たとえ事前に定まっていたとしても、自分で努力してその運を開拓していかないと、決してこれを掴むことはできないのだ。

 


良心と思いやりこそ人の歩むべき道であり、社会で生きていくための基礎。つまり、その人が幸運を掴むもとになるのだ。

 


「賢者も愚者も、生まれたては同じようなもの。しかし、学問をしないことによってたどり着く先が異なってしまう。」

 


悪い人間はいくら教えても聞いてくれないものなのだ。一方、良い人間は教えなくても自分でどうすればよいのかわかっていて、自然に運命をつくりだしていく。

 


潑剌としたチャレンジ精神を養い、それを発揮するためには、本当の意味での自立した人とならなくてはならない。人に頼ってばかりだと、自分の実力を著しく錆びつかせ、もっと大切な「自信」が育たなくなってしまう。この結果、ためらったりウジウジしがちになってしまわないように自分に厳しくムチ打って、弱気になるのを防がなくてはならない。

 


とにかく人は、誠実にひたすら努力し、自分の運命を開いていくのが良い。もしそれで失敗したら、「自分の智力が及ばなかったため」とあきらめることだ。逆に成功したなら「知恵がうまく活かせた」と思えば良い。成功したにしろ、失敗したにしろ、お天道様からくだされた運命にまかせていればよいのだ。こうして、たとえ失敗してもあくまで勉強を続けていれば、いつかまた、幸運にめぐまれるときがくる。

 


一時の成功や失敗は、長い人生や、価値の多い生涯における、泡のようなものだ。ところがこの泡に憧れて、目の前の成功や失敗しか論ぜられないのはダメだ。

成功や失敗といった価値観から抜け出して、超然と自立し、正しい行為の道筋にそって行動し続けるなら、成功や失敗などとはレベルの違う、価値ある生涯を送ることができる。

成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスにすぎない以上、気にする必要などまったくないのである。