DEATH 要約抜粋
DEATH
死に関する必然的な心理、すなわち、死の正真正銘の本質についての見識を探していく
魂について
二元論説 魂と体は別々という宗教的な考え
身体説 人が恋をしたり考えたりすることは、人間の「人格機能」であるという考え
したがって、ロボットに脳を移した自分は自分ではない
人格説 今の自分と同じ欲望や考えを持った人格が自分であると証明すること
この本の疑問
・もし死がまさしく終わりなら、この事実について、いったいどう考えるべきなのか?
・死の本質について、いったいどう考えるべきなのか?
・死は本当に悪いのか?
・永遠に生きる方が良いのか?
・死を恐れるのは適切か?
・避けようのない最後が待っていることを知っているのなら、その知識に照らしていったいどう生きるべきか?
深い眠りについて(夢を見ていない)想像することはできるか?できないだろう
死が悪だと思う原因として、非存在は機会を奪うから悪い(剥奪説)
死んでいることが悪いのは、人生が提供してくれるだろうさまざまな良いことをもう経験したり楽しんだりできないからだ。
死が悪いのは、人生における良いことを奪うからなのだ
ルクレーティウスの難問
生まれる前の時間も無限にある。では、存在しないことがそれほど悪いのなら、私は自分の誕生前にも存在していない時間に続いていることにも残念がるべきではないだろうか?
なぜ私たちは過去に存在しないことよりも未来に存在しないことを気にかけるのか?
不死は幸せではない
なぜなら、永遠にしたいことなどないのだから
死は、生きていればできた良い経験が奪われるから死は悪だと考えるが、逆に悪いものとなるはずだった将来を奪うなら死は良いものになる
死が教える「人生の価値」の測り方
ベンサムの功利主義の考えで測る。その人の人生の快感-痛みで出す
最善の種類の人生を得るには頭の中を適切な状態にするだけでは十分ではないということだ。そういう人生のためには、適切な種類の実績と知識と関係が必要となる。外側もしっかり抑えることが求められる。最高の人生には、経験(内面的な良いこと)なけではなく、「外面的な」良いことも欠かせないのだ。
人格を持った人間としての人生そのものに価値がある
誰もが生まれてきた方がいい、あるいは、誰もが生まれてこなかった方がマシだ、と言うのがふさわしくなるような、人間の境遇に与えるべき単一の全体的価値はない。悲しいことに、それは人それぞれの人生にまつわる事実次第なのだ。
その事実は、私がしていることを変える原因となるだけか、それとも、行動を変える真っ当な根拠を与えてくれるのか?
それがただの原因で、根拠ではないのなら、無視するのがふさわしい
恐れが適切であるための条件
1.恐れの対象が悪いものであること
2.それが起こる可能性が無視できないもの
3.それが起こるかどうかたしかでないこと
死んだらいかなる経験も全く存在しない。
正しい感情的反応は、恐れではなく、怒りでもなく、生きていられるという純然たる事実に対する感謝のように思える
いずれ死ぬ私たちは人生で何をするべきか
人生の「やり直しが効かない過ち」とは?
・何を目指すかに関して、お粗末な選択をしてしまったことに気づく場合がある。
・目標に関しては正しい選択をしても、達成しようとしていることを実際に達成するのをしくじったことに気づく場合もある。
大小の良いことを適切に取り混ぜることを目指す、というものだ。たしかに一方では、有意義な実績を特定の数だけ目指すべきだろう。それは、それが達成できれば人生の価値が高まるからだ。だがその一方で、同時に小さな目標もあれこれ加えるべきだ。人生から少なくとも何かしら得ることが保証されるように。
私たちのほとんどは、もっと楽観的な戦略を選ぶのが妥当