仕事は楽しいかね?
試してみることに失敗はない
遊び感覚でいろいろやって、成り行きを見守る。
問題は、才能のあるなしでもなければ、勤勉かどうかってことでもない。コイン投げの達人じゃないってことなんだ。
何度となく「表」を出すコインの投げ手は、何度となく投げているのだということを。そして、チャンスの数が十分にあれば、チャンスは君の友人になるのだということを」
必要は発明の母かもしれない。だけど、偶然は発明の父なんだ。
人は、変化は大嫌いだが、試してみることは大好きなんだ。
もし宇宙が信じられないような素晴らしいアイデアをくれるとして、きみはそれにふさわしいかね?
僕たちはね、失敗するのを怖がりすぎて、それが宇宙からの贈り物だってことに気づこうとしないんだ。
『あらゆることをしろ。素晴らしいアイデアは、どこからやってくるのかわからないのだから。』
誰だって、後からだったら、何だって言える。革新だというのは簡単そうに見えるものなんだ、後から見ればね。
大した努力もしていないのにちょっとしたまぐれ当たりに見えるなんて、そんなサクセスストーリーはありえないよ。
試すことは簡単だが、変えるのは難しい、ということを。
「困難というのは、一つひとつが実地演習を始める合図だ。試すことは、一つひとつが世の中への問いかけだ。答えというのは、一つひとつが旅だ。旅程の計画は人生に任せておけばいい。君の仕事は、光を集めることとカメラを持っていくことなんだから」
新しいアイデアというのは、新しい場所に置かれた古いアイデアなんだ。
LISTEN 知性豊かで創造力がある人になれる
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「誰とでも話ができる」は「誰の話でも聞ける」ということ
ジャーナリストとしての私にもっとも役に立っている学びは、適切な質問さえすれば、誰もが面白くなるということです。もし退屈で面白くない人がいるなら、それはあなたに原因があります。
自分に関心を持ってもらおうと過ごす2年間よりも、他の人に関心を持って過ごす2ヶ月間の方が、多くの友人を作ることができる。
あなたは、自分についてはもう知っています。でも話し相手のことや、その人の経験から自分が何を学べるのか、会話が始まる時点ではまだわかりません。その会話から何かしら学ぶことが目標です。
人間はたいてい、とりわけ社会的には、不確実性を嫌います。
しかし逆説的ではありますが、生きた実感をいちばん味わわせてくれるこは不確実性です。
予測不能だからこそ、人は興味深いのです。不確実性を避けたいがために人の話に耳を傾けないのとしたら、そこで確実に起こることは、退屈な時間と、新しい学びがないためにあなた自身もつまらない人間になる、それだけです。
実は私たちの誰もが、愛する人に関しては思いこみをする傾向にあります。これは「近接コミュニケーション、バイアス」と呼ばれています。
何を話すか、どの程度話すかは、そのときあなたが聞き手をどう感じるかによって変わります。表面的にしか聞いていないとか、粗探しのために聞いている、もしくは意見を言う機会をうかがいながら聞いているような相手には、大切な自己開示をあなたはおそらくしないでしょう。逆も然りです。
「自分がなぜその話を相手にしているのか、自分にとってそれがどういう意味を持つのか。人は、それを相手に理解してもらいたいのです。話の細かいところを知ってもらうことはそこまで重要じゃありません」
「この人はなぜこの話を私に聞かせているのだろう?」と常に自問しながら聞いてみてください。
「誰かに意識を完全に集中させると、その人についてどれだけ知ることができるか、びっくりするほどですよ」
話し続けず、一呼吸おいて人の話に耳を傾けないと、チャンスを逃してしまいます。自分のことを話すばかりでは、自分の知識に新しいものは何も加わりません。繰り返しになりますが、あなたは自分自身についてなら、すでによくしっています。
「私が考える優れた聞き手とは、他の人の経験や考えに喜んで耳を傾け、相手の視点を認められる人です。」
相手の話をすべて受け止めた方が、もっと的確な反応ができます。
あまりにも会話に夢中になって我を忘れてしまい、時間の感覚を失ってしまったことが。どの会話だって、そうできるのです。
「もし相手に対して『自分の役に立たない』とか、『話を聞いている時間がもったいない』、『つまらない』などと思っていれば、どんなにうなずき、言葉を言い換え、相手の目をしっかり見ていても、嘘だとバレて交渉が失敗するでしょう」
では、どんな姿勢でいるべきでしょうか。「それは、好奇心を持つことです」
「バカはそっちだ」と言いたい衝動を抑えるには、怒りに満ち、いらだち、警戒するのではなく、落ち着き、オープンで、好奇心に満ちた心を持つように、自分に言い聞かせるのです。
自分と意見が合わない人に、敵のように反応したいと感じたその瞬間に、深呼吸して相手に質問しましょう。
「聴くこと」は、想像工夫の原動力です。聴くことなしに欲求を理解し、問題を察知するのは無理な話ですし、完成度の高い解決法を生み出すなど、なおさらできません。
「私が学んだ聴くことの真の秘訣は、自分のことはどうでもいいということです。私は、目の前に空のコップを差し出しています。相手には、私のコップを満たして欲しいのです。彼らのコップは空のままで」
聞くことができない人のおおもとの原因は、不安感なのだそうです。
面白さとは、正直さ、親密さ、親しさから生まれる副産物なのです。
自分の恐怖心や感受性のせいで人の話をきちんと聞けなくなったときに、自分で認識するのです。
認知的複雑性は、さまざまな考え方を許容する、関連づける、新しいアイデアを思いつく、といった大切な能力です。内なる対話はこの力を伸ばし、その基盤となります。
「ずらす対応」で、動揺している人や悲嘆に暮れている人の話を聞いたとき、自分が相手の感情を苦痛に感じてしまうために、その問題を解決してあげようとしたり、安心させようと説得してしまう時に起こるのです。
しかし、他の人の問題を知ったからといって、あなたがそれを解決しなければならないわけではありません。あなたに解決してほしいだなんて思っていません。ただ、壁打ち相手が欲しいだけです。
相手の状況を「感じとる」のが、深く聞くこと
「人はいつも、自分が何者かを話してくるんだ」
常に自分を売り込みたいと必死になると、人は表現が大袈裟になりがちです。そうすると、会話のレベルは下がり、皮肉な態度を助長します。
たいした実績がない人ほど自慢したがる。
こういった人たちの会話は自己中心的ですが、それは嫌な奴だからというより、根深い自信のなさや、不安、弱みのあらわれであることが多いものです。
「自分が間違っているかもしれないと認めるのは簡単だ。しかし、自分が好きなものや嫌いなものを間違えているはずはない。」と書いています。ということは、相手に、自分についてどう感じるかを変えて欲しいと説得するよりも、自分をどう感じているのかに耳を傾けた方がいいですね。愛情を、議論と説得で勝ち取るなどできません。きずなを築くのに一番確実な方法は、相手の話に心から耳を傾けることです。
優れた聞き手は、相手が自分の内なる声を見つけるのを助けようと、時間をかけて手をつくします。そしてその過程で、親密になり、理解を深められます。
相手に注意を向け続ける才能がある人も、努力でそれを成し遂げる人もいます。どちらのタイプであれ、聞き手が注意を向け続ければ、人は心の内を打ち明けてくれるでしょう。
明確な許可がないなら、その情報を勝手に教える立場にありません。
「これまで私が最も称賛されたと感じたのは、ある人が私の考えを尋ね、その答えにじっと耳を傾けたときでした。」ルソー
君主論
人間というものはつねに他の人びとが通った道を歩むものであり、彼ら先人の行為を模範しながら進むものだが、先人の道は完全に辿ることができないし、あなたが真似しようとする人物たちの力量まで達することもないので、賢明な人ならばつねに偉大な人物たちが通った道から入って、甚だしく抜きん出たそれらの人々の真似に徹するべきである。
「君主は、慕われないまでも、憎まれることを避けながら、恐れられる存在にならねばならない。なぜならば、恐れられることと憎まれないことは、充分に両立し得るから。」
人間は本性においては、施された恩恵と同様に、施した恩恵によっても、義務を感じるものなのである。
精神の訓練に関しては、君主は歴史書を読まねばならない。そしてその内に卓越した人物たちの行動を熟慮し、戦争のなかでどのような方策を採ったか見抜き、彼らの勝因と敗因を精査して、後者を回避し前者を模範できるように努めねばならない。
卓越した自分たちといえども、自分よりも以前に、賞賛され栄光を勝ち得た者がいれば、その人物たちといえども、自分よりも以前に、賞賛され栄光を勝ち得た者がいれば、その人物の偉業を常に座右の銘として模範に努めたのであるから、それと同じようにしなければならない。
いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、自らの存続よりも、むしろ破滅を学んでいる。
君主たる者は、おのれの臣民の結束と忠誠心とを保たせるためならば、冷酷という悪評など意に介してはならない。なぜならば、殺戮と略奪の温床たる無秩序を、過度の慈悲ゆえに、むざむざ放置する者たちよりも、一握りの見せしめの処罰を下すだけで、彼の方がはるかに慈悲深い存在になるのだから。
人間というのは、恐ろしい相手よりも、慕わしい相手のほうが、危害を加えやすいのだ。
人びとが慕うのは自分達の意に叶う限りであり、恐れるのは君主の意に叶う限りであるから、賢明な君主は自己に属するものに拠って立ち、他者に属するものに拠って立ってはならない。しかし、憎しみだけは逃れるように努めねばならない。
君主たる者は、従って、さきに記した五つの資質(慈悲深く、信義を守り、人間的で、誠実で、信心深く)が身に備わっていないことを暴露してしまう言葉は、決して口から出さぬように、充分に気をつけねばらならない。
軽蔑を招くのは、一貫しない態度で、女々しく、意気地なしで、優柔不断な態度である。これを君主は、暗礁のごとくに、警戒しなければならない。そして自分の行動が偉大なものであり、勇気に溢れ、重厚で、断固たるものであると認められるように努めねばならない。
新しい君主が、偉大な存在になろうと望む時には、何よりも運命が敵をつぎつぎと生ぜしめ、彼に向かって攻撃を仕掛け、乗り越えるべき機会を彼につかませながら、外敵が差し出す梯子を伝って、さらなる高みへと彼を昇らせようとする。
一方に味方し他方に敵対する態度を明確に示すとき、その場合にも君主は尊敬される。このような態度は、中立を守ることなどよりも、はるかに有用である。
物事の成り行きの常として、一つの不都合を避けようとすれば、もう一つの不都合に巡り合うのは当然であるから。だが、慎重な心構えとは、数々の不都合の性質をよく見分けて、最悪でないものを良作として選び取ることにある。
頭脳には3種類ある。第一は自分の力で理解し、第二は他人の理解を聞き分け、第三は自分の力でも他人の力でも理解しない場合だが、第一は格段に秀れ、第二も秀れているが、第三は無能である。
君主たる者は、それゆえ、つねに助言を求めなければならない。が、それは、自分が望むときであって、他人が望むときではない。
良き助言というものは、誰から発せられても、必ず君主の思慮のうちに生まれるものであり、良き助言から君主の思慮が生まれるのではない。
人間たちの共通の欠陥であり、凪の間にしけのことを考えようとしないので、後になって逆境に見舞われるや、さっさと逃げ出して、そのうち自分たちを呼び戻してくれるのを、期待していたのだから。そのような決断は、他に方法がなければ、まだしも許せるが、それに頼って他の治療法を投げ出してしまったのでは、いかにも悪い。
あなたを助け起してくれる人がいると見込んで、倒れるような真似は、誰もするはずがないから。そのような事態は起こらないし、仮に起こったとしても、あなたに安全をもたらさない。そうして成った防衛は、卑しい真似の結果であって、あなた自身の力で拠ったものではないから。永続的な防衛は、あなた自身の力に拠って支えられ、あなたの力量に依存したもの、それだけである。
しかし、私たちの自由意志が消滅してしまわないように、私たちの諸行為の半ばまでを運命の女神が勝手に支配しているのは真実だとしても、残る半ばの支配は、あるいはほぼそれくらいまでの支配は、彼女が私たちに任せているのも事実である、と私は判断しておく。
運命がその威力を発揮するのは、人間の力量がそれに逆らってあらかじめ策を講じておかなかった場所においてであり、そこをめがけて、すなわち土手や堤防の築かれていない箇所であることを承知の上で、その場所へ、激しく襲いかかってくる。
君主が、全面的に運命にもたれかかっていたので、それが変転するや、たちまちに滅びてしまったのである。私の考えでは、次いで、その君主が幸運に恵まれたのは、彼の行動様式が時代の特質に合っていたためであり、同様にして不運で合ったのは、彼の行動が時代と合わなかったためである。なぜならば、人間というものは、各人が行く手に抱く目標へ、すなわち栄光と富貴へ、おのれを導いてゆく事態のなかで、さまざまに行動することが知られているから。
慎重な態度をとった二人のうち、一方は目標へ到達したのに、他方がそうでなかったり、同様にまた一方が慎重であり、 他方が果敢であるというように、異なった行動様式をとりながら、二人が同じように幸運な結果へ達することもあるから、すなわちこれは、時代の特質が彼らの行動と合っていたのか、あるいはいなかったのか、それ以外の何ものからも生じなかったのである。この点から、先に私の述べたことが、すなわち二人が異なった活動をしながら、一方が目標へ到達したのに他方がそうでなかったという事態が、生ずるのである。
だがらもしも時代と状況に合わせて自分の性質が変わっていれば、自分の運命はわからないであろう。
運命は時代を変転させるのに、人間たちは自分の態度にこだわり続けるから、双方が合致しているあいだは幸運に恵まれるが、合致しなくなるや、不運になってしまう。私としてはけれどもこう判断しておく。すなわち、慎重であるよりは果敢であるほうがまだ良い。なぜならば、運命は女だから、そして彼女を組み伏せようとするならば、彼女を叩いてでも自分のものにする必要があるから。そして周知のごとく、冷静に行動する者たちよりも、むしろこういう者たちのほうに、彼女は身を任せるから。それゆえ運命はつねに、女に似て、若者たちの友である。なぜならば、彼らに慎重さは欠けるが、それだけ乱暴であるから。そして大胆であればあるほど、彼女を支配できるから。
もしあなた方が、先に挙げた人たちの、行動や生き方を目標に掲げるならば。そしてあの人たちが、たとえ類稀な驚嘆すべき者たちであったにせよ、だがしかし、彼らとて同じ人間であったのであり、彼らの誰もが現在ほどの好機に恵まれてはいなかった。
あらゆる物事があなた方の偉大さのうちに集まってきた。あとは、あなた方がみずから実行しなければならない。神が何から何まで手を下そうとされないのは、わたしたちから自由意志を、また私たちに属する栄光の部分を、奪わないためである。
人生論ノート
人生論ノート
幸福は人格である。人がコートを脱ぎ捨てるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎ捨てることのできる者が最も幸福な者である。
機嫌が良いこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でないごとく、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないだろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うがごとく自ずから外に現れて他の人を幸福にする者が真の幸福である。
人生がただ動くことでなくて作ることであり、単なる存在でなくて形成作用であり、またそうでなくてはならぬゆえんである。
実をいうと、習慣こそ情念を支配し得るものである。情念が習慣に形作られるのでなければ情念も力がない。一つの習慣は他の習慣を作ることによって破られる。
虚栄心の虜になるとき、人間は自己を失い、個人の独自性の意識を失うのがつねである。そのとき彼はアノニム(名前の無い)な「ひと」を対象とすることによって彼自身アノニムな「ひと」となり、虚無に帰する。しかるに名誉心においては、それが虚栄心に変ずることなく真に名誉心にとどまっている限り、人間は自己と自己の独自性の自覚に立つのでなければらない。
だから名誉心を持っている人間が嫌うのは流行の模範である。名誉心というのはすべてアノニムなものに対する戦いである。
世間の評判というものはアノニムなものである。従って評判を気にすることは名誉心でなくて虚栄心に属している。
義人(正義を守る人)とは何か、ー怒ることを知れる者である。
虚無(何も存せず、むなしいこと)はむしろ人間の条件である。泡沫や波が海と一つのものであるように、人間もその条件であるところの虚無と一つのものである。
虚無が人間の条件あるいは人間の条件であるものの条件であるところから、人生は形成であるということが従ってくる。
孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間のごときものである。「真空の恐怖」ーそれは物質のものでなくて人間のものである。
いかなる対象も私をして孤独を越えさせることはできぬ。孤独において私は対象の世界を全体として越えているのである。
人は自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。
嫉妬とはすべての人間が神の前においては平等であることを知らぬ者の人間の世界において平均化を求める傾向である。
嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自信はいかにして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。
古代人や中世的人間のモラルの中心は幸福であったのに反して、現代人のそれは成功であるといってよいだろう。成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心ではなくなった。
成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに憐れむべきである。
成功も人生に本質的な冒険に属するということを理解するとき、成功主義は意味をなさないであろう。成功を冒険の見地から理解するか、冒険を成功の見地から理解するかは、本質的に違ったことである。成功主義は後の場合であり、そこには真の冒険はない。
純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。
人格とは秩序である、自由というものも秩序である。
すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、その逆でないということは、深く考うべきことである。つまり確実なものは与えられたものではなくて形成されるものであり、仮説はこの形成的な力である。
人生も仮説的なものである。それが仮説的であるのは、それが虚無に繋がるためである。各人はいわば仮説を証明するために生きている。
人生は実験であると考えられる。仮説なしに実験というものはありえない。ーもとよりそれは、なんでも勝手にやってみることではなく、自分がそれを証明するために生まれた固有の仮説を追求することである。
現代の道徳的頽廃の表面の形はまことによく整っている。そしてその形は旧いものではなく全く新しいものでさえある。しかもその形の奥には何等の生命もない、形があっても心はその形に支えられているのではなく、虚無である。これが現代の虚無主義の性格である。
娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。生活を楽しむということ、従って幸福というものがその際根本の観念でなければなるなぬ。
娯楽は生活の中にあって生活のスタイルを作るものである。娯楽は単に消費的、享受的なものではなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見えることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。
この機械技術を支配する技術が必要である。技術を支配する技術というものが現代文化の根本問題である。
人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。
希望とは、好ましい事物の実現を望むこと。
希望は運命のごときものである。それはいわば運命というものの符号を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望というものはあり得ないであろう。しかし一切が偶然であるなら希望というものはありえないであろう。
人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。
それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。
希望は私から生ずるのでなく、全く私の内部のものである。真の希望は絶望から生ずるといわれるのは、まさにそのことすなわち希望が自己から生じるものでないことを意味している。絶望とは自己を放棄することであるから。
絶望において自己を捨てることができず、希望において自己を持つことができぬということ、それは近代の主観的人間の特徴的な状態である。
人生問題の解決の鍵は新しい基準を発見することにあるように思われる。希望が無限定なものであるかのように感じられるのは、それが限定する力そのものであるためである。
スピノザの言ったように、あらゆる限定は否定である。断念することを本当に知っている者のみがほんとうに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。
形而上学は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性的な思惟によって認識しようとする学問
朗らかな人とは
「朗らか」とは、「心に曇りがなく穏やかな様子」や「晴々とした様子」などを表す言葉です。
そして、そのような意味を持った言葉が使われる「朗らかな人」とは、「いつも笑顔で明るく穏やかで、裏表がない人」といえます。
また人間関係のストレスが少なくなることから、精神面を健康に保つこともできるでしょう。
マネジメント
マネジメント
企業の目的の定義は、顧客を創造することである。
これまでのマーケティングは、販売に関係する全職能の遂行を意味するにすぎなかった。それではまだ販売である。われわれの製品からスタートしている。われわれの市場を探している。これに対し真のマーケティングは顧客からスタートする。すなわち現実、欲求、価値からスタートする。「われわれは何を売りたいか」ではなく、「顧客は何を買いたいか」を問う。
売上の伸びとは関係なく、市場シェアは企業にとって致命的に重要である。
経済活動には三つの経営資源が必要。
1つ物的資源
2つ人材
3つ資金
「不確実な明日のために今日何をなすべきか」
経済活動とは、現在の資源を未来に、すなわち不確実な期待に賭けることである。経済活動の本質とは、リスクを冒すことである。
人にとって、働くことは重荷であるとともに本性である。呪いであるとともに祝福である。それは人格の延長である。自己実現である。自らの価値を測り、自らの人間性を知るための手段である。
働くことが成果と自己実現を意味した時期や組織があった。その典型が、国家存亡の時だった。
働く者が職務に誇りを持つようになったことが最大の収穫
マルクス主義は、所有関係に焦点を合わせた。家族的マネジメントの信奉者は、住宅や医療などの福利に焦点を合わせた。だが、それらのものは重要であっても、やりがいのある仕事には取って代わるものではなかった。
働きがいを与えるには、仕事そのものに責任を持たせなければならない。そのためには
①生産的な仕事
②フィードバック情報誌
③継続学習が不可欠である。
人が雇われるのは、強みのゆえであり能力のゆえである。組織の目的は、人の強みを生産に結びつけ、人の弱みを中和することにある。
未来を予測することは不可能である。したがって決定したことを実行に移し、時には修正してくれる者、すなわち明日のマネジメントを行う者を試し、選び、育てて、初めて今日の意思決定を責任あるものとすることができる。
真摯さの欠如の定義
①強みよりも弱みに目を向ける者をマネージャーに任命してはならない。できないことに気づいても、できることに目のいかない者は、やがて組織の精神を低下させる。
②何が正しいかよりも、誰が正しいかに関心を持つ者をマネージャーに任命してはならない。仕事よりも人を重視することは、一種の堕落であり、やがて組織全体を堕落させる。
③真摯さよりも、頭の良さを重視する者をマネージャーに任命してはならない。そのような者は人として未熟であり、しかもその未熟さは通常治らない。
④部下に脅威を感じる者を昇進させてはならない。そのような者は人間として弱い。
⑤自らの仕事に高い基準を設定しない者もマネージャーに任命してはならない。そのような者をマネージャーにすることは、やがてマネジメントと仕事に対するあなどりを生む。
意見の相違を重視する
ある案だけが正しく、その他の案は全て間違っていると考えてはならない。自分は正しく、他の人の案は間違っているとも考えてはならない。なぜ他の者は意見が違うのかを明らかにすることからスタートしなければならない。明らかに間違った結論に達している者がいても、それは、何か自分と違う現実を見、自分とは違う問題に関心を持っているからに違いないと考えなければならない。
行動すべきか否かの判断の指針
①行動によって得られるものが、コストやリスクよりも大きいときには行動する。
②行動するかしないかいずれかにする。二股をかけたり妥協したりしてはならない。
意思決定に大事なのは、問題への答えではなく、問題についての理解である。
あらゆる事物に複数の側面があることを認識することは至難である。しかしコミュニケーションを成立させるためには、受け手が何を見ているか知らなければならない。
受け手が期待しているものを知ることなく、コミュニケーションを行うことはできない。期待するものを知って、初めてその期待を利用することができる。
実は、こうして同じ事実を違ったように見ていることをお互いに知ることが自体が、コミュニケーションである。
コミュニケーションが成立するには、経験の共有が不可欠だということである。
成果よりも努力が重要であり、職人的な技能それ自体が目的であるかのごとき錯覚「生んではならない。仕事のためではなく成果のために働き、贅肉ではなく力をつけ、過去ではなく未来のために働く能力と意欲を生み出さなければならない。
学問のすゝめ
一生懸命にやるべきは、普通の生活に役立つ実学である。
世の中の人に先立って、自分自身で事業を興し、国民に手本を示す人物が必要なのだ。これが期待できるのは「洋学者」だけである。
勇気というものは、ただ読者をして得られるものではない。読書は学問の技術であって、学問は物事をなすための技術にすぎない。実地で事にあたる経験を持たなければ、勇気は決して生まれない。
マルチルドム=失うのはただ1人の命であっても、その効能は一千万人を殺し、一千万の金を費やす内乱よりもはるかに大きい。
一身の衣食住を得てこれに満足するべきだ、とするならば、人間の生涯はただ生まれて死ぬだけだ。死ぬときには、生まれてくる時と何も変わらない。
事をなすには、時勢に合う、合わないがある。時を得なければ、能力のある人間でもその力を発揮することはできない。そういう例は古今少なくないのだ。
人間の見識、品格を高めるためには、物事の様子を比較して、上を目指し、決して自己満足しないようにすることである。
人間社会において最大の害があるのが、「怨望(他人の幸福をねたんだり、恨むこと)」である。
欠点中の欠点といえるのは、怨望である。怨望は、働き方が陰険で、進んで何かをなすこともない。他人の様子をみて自分に不平をいだき、自分のことを反省もせずに他人に多くを求める。
金の使い方を工夫し、金を制して金に制されず、精神の独立を少しでも損なうことがないように
人間の心は高尚でなければならない。心が高尚でなければ、また働きも高尚にならないものなのだ。
人望とは、その人の活発な知性の働きと、正直な心という徳を持って、次第に獲得していくものなのだ。
表情や見た目が快活で愉快なのは、人間にとって徳の一つであって、人付き合いの上で最も大切なことである。
交際の範囲を広くするコツは、関心をさまざまに持ち、あれこれをやって一ところに偏らず、多方面で人と接することにある。
徳の一つであって、人付き合いの上で最も大切なことである。